Japanese Castle

金沢城 大手~三の丸

大手~三の丸

【大手堀】
 新丸の北側、大手門から黒門まで残る大手堀。幅広い水堀で、新丸側の野面積みの石垣は慶長期のものらしい。
【大手町】
 大手堀の堀端に建てられている大手町の碑。この辺りは大手町と呼ばれ、当時は武士が多く住んでいた。
【大手門(尾坂門)】
 当初黒門口にあった大手を高山右近の進言により、こちらの尾坂門に移したと言われている。大手らしく巨大な鏡石が使われた立派な櫓台石垣が残っており、所々に刻印も見られる。金沢城最大の石もここに組み込まれているらしい。のしかし、この上に櫓や長屋が記載された資料は無く、棟門が設けられていただけらしい。これだけの石垣を作っておいて、少し寂しい感じもする。

【黒門跡】
 新丸の北西に設けられている黒門跡。当初はこちらが大手だったらしい。現在は舗装された車道になっており、ある程度改変されていそう。
【新丸】
 慶長4年(1599)の拡張工事の際に増設された広大な新丸。当時は大手門から入り、この新丸を通って河北門から入城するのが大手のルートだった。曲輪南側の二の丸・三の丸下には湿生園という池のような場所があるが、水堀の名残だろうか。
【藤右衛門丸】
 新丸の西側、一段高くなった曲輪が藤右衛門丸跡。いつの時代の物かは分からないが、石垣も見られる。現在は曲輪内には入れない。
【河北門】
 三の丸の北側に位置する内枡形門。橋爪門、石川門とともに三御門と呼ばれ、その中でも特に三の丸の大手にあたる重要な門だった。宝暦9年(1759)のいわゆる宝暦の大火で焼失したが、安永元年に(1772)に再建され、明治15年(1882)頃まで存続していた。現在復元されているのは、この頃の門。天正12年(1584)末森城の戦いの際、前田利家がここから出陣したという伝承があり、創建当初から存在したと思われる。

【ニラミ櫓】
 河北門の横に建てられていたニラミ櫓。文字通り大手にニラミを効かす位置にある。当初は二重櫓が建てられていたらしいが、こちらも河北門同様宝暦の大火で消失し、それ以降再建されることは無く、安永元年(1772)に出窓付きの土塀が築かれた。現在は再現されているのはその頃のもの。
【河北門かくし石垣】
 ちなみに、この河北門の枡形を構成する土塀は、一見すると土塀だが、実は石垣になっているらしい。『城内で唯一の隠し石垣』なんだとか。壊せそうに見せて、実は壊せないという効果を狙ったのだろうか?
【石川門】
 三の丸の東に位置する内枡形門。金沢城と言えば石川門と言うくらい有名な門だが、実は当時は搦手門にあたり、大手だった河北門よりは一回り小さく造られている。しかし、ともに三御門と呼ばれた橋爪門、河北門が復元なのに対し、この門は唯一天明8年(1788)に再建された当時のものが残る現存門として非常に貴重で、重要文化財にも指定されている。

【石川門内部】
 石川門の枡形を構成する櫓門の内部に入ることが出来る。現在の門は宝暦9年(1759)の大火で消失した後、天明8年(1788)に再建された時のもので、その後、寛永11年(1799)の大地震でも損傷を受けるなどし、何度か解体修理もされながら残っている。
【石川門石垣】
 石川門の枡形を構成する石垣は、一の門を抜けた正面は見事に加工された石が隙間無く積まれているのに対して、左側は粗加工の石積みとなっている。最近の復元なのかと思ったが、文化年間(1804~1818)の文書に『左右違い分けて積むのはおかしい』と書かれているらしいので、それ以前からのもので、明和2年(1765)に改修された頃のものと思われる。確かにおかしい。途中で面倒になったのか?
【三の丸跡】
 広大な三の丸跡。北に河北門、東に石川門を設けた守りの要となる曲輪。戦後は金沢大学の敷地となっていたが、現在は移転し公園となっている。
【三の丸石垣】
 三の丸東側の石垣は、文化年間(1803~1816)に修築されている。当時は堀縁だったここの石垣は荒く積むのがふさわしいと言うことで、あえて勾配からずらして石を積んでいるらしい。色々なこだわりがあるものなんだな。
【三の丸 四十間長屋跡】
 現在は跡形もないが、当時は三の丸北側に四十間長屋が建てられていた。この北側の新丸との間は緩やかな斜面になっているが、当時はもっと急だったのだろう。ちなみに、この長屋も合わせて、当時は14もの長屋が設けられていたらしい。
【土橋門】
 三の丸と藤右衛門丸を繋ぐ土橋の三の丸虎口側に設けられていた門。確かに土橋の名残も見られるが、『土橋の先にあるから土橋門』などと言い始めたら、多くの門が土橋門になってしまう気がしないでもない。現在は虎口両側の石垣が残るのみだが、当時は枡形になっており、石垣の上には櫓門が建てられていた。
【土橋門 亀甲石】
 土橋門の石垣は見事な切石が隙間無く積まれており、その中の6角形の石は亀甲石と呼ばれ、水に親しむ亀から防火の願いが込められているらしい。文化年間の大火の際にこの門は焼失を免れており、この石のおかげと言われているとか。まぁ実際のところ、中枢部からはだいぶ離れているからな延焼しなかっただけのような気もするが。伝承はともかく、見事な石組み技術。