Japanese Castle

七尾城跡

七尾城跡について

 能登最大の規模と堅固さを誇った守護大名畠山氏歴代の居城。応永15年に初代畠山満慶が能登守護になり、文明9年(1477)に応仁の乱が終わり三代義統が能登に入国した頃に築城がはじまったと考えられる。その後、戦国時代を通じて畠山氏の本拠城として増築された。この城をめぐってお出しと上杉氏が争ったが、一度は上杉謙信をも退けている堅城。その後、内応により開城し上杉配下の城となったが、謙信の没後は織田配下の城となった。天正9年(1581)信長による北陸制圧後に能登一国を与えられた前田利家が城主となり、大規模な改造が実施さた。しかし、天正17年(1589)に山麓に小丸山城を築き移って行った為、廃城となった。
【駐車場~調度丸】
 標高300mの山上に築かれているが、城域の東側の長屋敷の辺りまで車で行くことが出来、そこから遊歩道をほぼ平行移動で調度丸まで行けるようになっている。遊歩道の両側には、主郭部と長屋敷とを隔てる掘切が見られる。この遊歩道を通すために、掘切を埋め立ててしまったのだろうと思ったが、古絵図を見ると当時からこの道はあったらしい。まぁある程度改変はされているだろうけど。
【調度丸】
 あっという間に調度丸に到着するが、本来は大手道から登城し三の丸や二の丸の横を抜けて至る曲輪。大手から本丸へのルート上にある重要な曲輪で、石垣を用いた立派な虎口が設けられている。曲輪内からは多くの遺物が見つかっており、名前の通り武器蔵や米蔵などがあったと推定されている。

【桜馬場石垣】
 調度丸南側に見られる5段の見事な石垣が桜馬場の石垣。昭和になってからの積み直しだが、幅は45mあり城内最大規模の石垣。大手から登城してきた人が必ず通るルート沿いにある。圧巻だったろうな。

【桜馬場】
 石垣の南側が桜馬場。馬場と言うだけあり東西45m、南北25mと広大な曲輪。こんな山上で?と言う気もしないでも無いが、文字通り軍馬の調練を行っていた場所と言われている。
【桜馬場南側】
 桜馬場の南側には重厚な土塁が築かれ、その外側の斜面には石垣が築かれている。桜馬場は北側の石垣が有名だが、実は昭和期以降の積み直し。それに対し、南側の石垣は当時のままで旧状を良くとどめている。裏込石を使わない初期の造りで、あまり高く積めず4段になっている。しかし、急斜面で良く見れないのが残念。
【遊佐屋敷】
 桜馬場の東側の石垣で区画されただけの曲輪に見えるが、本丸直下の重要な位置にあることから、城主に次ぐ守護代だった遊佐氏の屋敷跡と考えられている。現在は木に覆われているが、東西25m、南北40mある広大な屋敷跡。すぐ背後は本丸。ちなみに、遊佐氏は温井氏などとともに謙信に内応し、実権を握っていた長続連らを謀殺して開城に至った。

【本丸北側石垣】
 遊佐屋敷から北側に設けられた階段を通り本丸へ。本丸の北側は高さ4m程の石垣が三段に渡り設けられており、その西側には山腹の移動を阻む高さ2m程の登り石垣が設けられている。この辺りの石垣も積み直されたものとは思うが、かなりの迫力。
【本丸】
 標高300mの城山の最高所に位置する本丸。東西50m、南北40m程あり、山上の曲輪としてはかなり広大。シンボルともなっている『七尾城址』の石碑は畠山氏の子孫が建てたものらしい。
【本丸天守台】
 本丸の南側の一段高くなった部分が天守台らしい。高さ3m程で、かなりの規模の櫓台。一般的にイメージする天守閣とは違うだろうが、何らかの櫓のような建物が建てられていたかもしれない。現在は、城山神社が祀られている。
【本丸西側】
 本丸の三方は崖に囲まれているので、唯一の開口部となる西側を土塁と石垣で守りを固めている。また、南西隅には外枡形の虎口が設けられているが、これは前田氏時代の改修によるものと思われる。

【本丸からの眺め】
 標高300mの本丸は眺望が良く、七尾市街と能登湾が一望出来る。七尾城を落とした謙信がここからの絶景に感嘆して有名な『霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁、月三更 越山併せ得たり能州の景 莫遮、家郷遠征を懐う』とい漢詩を詠んだと言われているが、実際には謙信が詠んだという確証は無いらしい。
【長屋敷跡】
 本丸から掘切を隔てた東側にある小山のような曲輪が長屋敷。本丸より高い位置にあるように見える。城主の畠山氏との力関係を表しているよう。草木に覆われてとても登れるような感じでは無かった。
【西の丸】
 本丸から枡形虎口を抜けて桜馬場に戻る。桜馬場の西側にある高さ10m程の独立した曲輪が西の丸。虎口が見当たらず、草が生い茂っていたので、上るのを断念。三尺石と呼ばれる巨石を用いた石垣が残っているらしいが、草で確認出来なかった。
【温井屋敷】

 桜馬場の西側、二の丸との間に位置する温井屋敷跡。南北に細長い曲輪で、桜馬場との間は高さ3m程の土塁で区画されている。西側の切り岸はかなり急傾斜。温井氏は遊佐氏などとともに謙信に内応し、実権を握っていた長続連らを謀殺して開城に至った。
【九尺石】
 温井屋敷の西側の内枡形っぽくなった虎口部分に置かれている九尺石。その名の通り、幅2.7mある巨石。折角なら、大手側に持って行けば良かったのに・・・ と言う気もするが、事情があったのかな?
【温井屋敷~二の丸】
 温井屋敷から北側の二の丸へ。温井屋敷からは高さ3m程の二段の石垣と腰曲輪を経て二の丸に至る。
【二の丸】
 温井屋敷の北側、尾根の分岐点に築かれた曲輪で、周囲を急峻な崖に囲まれた独立性の高い曲輪。一部には土塁も残っている。現在は北側の掘切に下りる階段が設けられているが、それでも怖いくらいの急傾斜。当時は勿論こんな場所に階段は無かったはずで、まず直上は出来なかっただろう。

【二の丸~三の丸】
 二の丸の北側、三の丸との間の巨大掘切。深さは15m以上ありそうな巨大なもので、二の丸と三の丸との間を完全に分断している。
【三の丸】
 掘切を隔てた北側の三の丸。南北110mに及ぶ最大の曲輪で周囲には石垣も見られる。また、内部には曲輪を南北に区切っていた築地塀の跡と思われる石垣も見られる。二の丸同様、この曲輪の周囲も急峻で独立性が高い。

【袴腰】
 三の丸の北側の腰曲輪は袴腰と呼ばれている。ここは大手道沿いにある沓掛場とともに、大手から登城してきた人が身なりを整えるための場所だったらしい。流石は名門畠山氏。
【安寧寺跡】
 袴腰の北側、一段下がった場所にある安寧寺跡。七尾城の攻防戦で亡くなった人を祀る慰霊碑が建てられている。その慰霊碑には、足利氏の出自を示す畠山氏の家紋『二つ引両』が見られる。織田・上杉の争いに巻き込まれる頃には、すっかり重臣に実権を奪われて傀儡となってしまっていたが、元々は足利一門の名門だった。
【大手道①】
 大手道は山麓から三の丸・二の丸の横を通り調度丸に至るが、袴腰辺りからその途中に出る。三の丸の北側辺りに番所の跡があり、そこを抜けると登城に際して身なりを整えたという沓掛場がある。それぞれちょっとした平場になっているだけで、遺構は何も無く、案内が無ければまず分からないだろう。
【大手道②】
 番所跡と沓掛場跡の間の掘切を通り、その先には枯れたことが無いという湧き水『樋の水』がある。枯れたことが無いと言うだけあり、今でも水が湧き出ていた。当時は貴重な水源だった事だろう。
【寺屋敷跡】
 大手道を調度丸に向かう途中、左側に見える数段の曲輪が寺屋敷跡。かなり広い曲輪で、墓守を兼ねた僧兵が居住していたらしい。曲輪内に巨大な土盛があったが、何なのかは不明。
【寺屋敷跡~調度丸】
 それまで細い道だった大手道は、寺屋敷跡辺りから急に開けた雰囲気の階石段となり、石段の先に調度丸の虎口石垣と桜馬場の5段石垣が見えてくる。やはり大手から歩いてこの感動を味わいたかったなぁ。
【大門道】
 今度は北側の山麓へ。城山に至る道は大手道の他にも、いくつかあり、その一つの大門道の跡も県道に寸断されながらも一部残っている。北東の矢田大門から長屋敷へと至る登城路だったらしい。
【惣構え】
 北側山麓に残る惣構えの土塁。高さ3m程の土塁が続いている。天文13年(1544)の記録では、城山山麓に城下町『千門万戸』が一里余りにも連なったと言われており、それらの賑わっていた城下町ごと囲ったのだろう。
【山麓から見た城山】
 山麓から見た城山。ここから登ると本丸まで2.5km程。何とか歩けなくも無い距離だが、とても攻める気にはならないなぁ。そりゃ謙信と言えど、手こずるだろうな。内応が無かったら落とせていたかな?