Japanese Castle

末森城跡

末森城跡について

 能登・加賀・越中の国境付近に位置する交通の要衝で、築城年代は定かではないが、前田氏の頃には能登・加賀の統治の拠点となっていた。天正12年(1584)に、佐々成政の1万5千の大軍が前田氏の両国分断を狙って攻め入った末森城の攻防で有名。その際、城主の奥村永福は五百人程で籠城し、前田利家が三千余りの援軍が城に入り、数で優勢なはずの佐々軍を退却させた。この戦い以降、前田利家は越中に勢力を伸ばし、また秀吉対信雄・家康の代理戦争という意味でも重要な戦いだった。
【城址入口】
 城自体は余り整備されていないものの、やはり有名城と言うことで、大きな看板が立てられており、入口は分かりやすい。一応県の史跡にもなっており、駐車場もある。
【末森山古戦場】
 駐車場から国道の橋を渡ったところには、『末森山古戦場』の石碑が建てられている。平成14年の大河ドラマ『利家とまつ』の時に建てられたらしい。末森城の戦いの際には、両軍合わせて千五百人以上が戦死しているらしい。佐々成政が中途半端に包囲して勝手に退却したイメージだったが、実際には二の丸まで落としているし、かなり激しい戦いだった。
【大手道】
 城域西側の竹生野口からの大手道を通り主郭部に向かう。途中に屋敷跡とみられる作平地や、掘切のような場所も見られる。ささら城戸という門跡もあるらしいが、はっきりとは分からなかった。
【大手大門跡】
 しばらく大手道を進むと、見事な掘切が見えてくる。ここは三の丸と若宮丸とを分断する掘切で、当時は大手大門が置かれていた。
【若宮丸】
 掘切の南側に位置する若宮丸。三角の曲輪だが、それなりの広さがある。ここは発掘調査されており、掘立建物跡や多くの遺物が見つかっている。
【三の丸】
 若宮丸と掘切を隔てた場所から三の丸らしいが、藪が酷くて曲輪の形状が判然としない。しばらく三の丸の東側の切り通しのような道がを上ると多少曲輪っぽい場所が現れるが、辛うじて切り岸が分かる程度。
【二の丸】

 二の丸も三の丸同様に草が生い茂っているが、三の丸に比べるとだいぶマシで、周囲の空堀も分かる。しかし、草の無い時期に来たかったな。入口には熊も出ると書かれていたし、この手の山城は夏に来てはいけないな。
【本丸】
 標高139mの末森山の最高所に位置する本丸。ここもかなり鬱蒼としているが、草がなければ眺望が良いのだろう。佐々成政が攻めてきた際、二の丸、三の丸まで落とされ、この本丸のみで抗戦したらしいが、数百人が籠もれる程の広さには見えない。いずれにしても、激しい戦いだったのだろう。