Japanese Castle

登城路

大手門

【大手二の門】
 城山の北側山麓に位置する大手門。生駒氏築城当初、城の大手は南側で当時の絵図によると、この場所には丸木柱の簡単な門と土橋がかかるだけだったが、寛文10年(1670)に京極氏が入城した際に北側に移された。現在見られる門もその際に移築されたものらしい。ちなみに、枡形虎口の場合、一般的には最初の高麗門が一ノ門、枡形を抜けた櫓門を二ノ門と呼ぶ事が多いが、ここでは何故か逆らしく、櫓門が一の門、高麗門が二の門と言う事になっている。
【大手一の門】
 『大手一の門』にあたる櫓門。ややこしいが、一般的にはの二ノ門にあたる。当時は楼上に太鼓が置かれていたことから、太鼓門とも呼ばれている。大手二の門とともに重要文化財に指定されている。ちなみに、大手門と天守の両方が現存しているのは意外と少なく、ここ丸亀城の他、高知城、弘前城くらいだと思う。
【大手一の門内部】
 大手一の門の内部。桁行13間、梁間3間の規模で枡形に面した下半分の壁が厚く造られており、下部には上げ蓋がついた石落としも設けられている。2009年に訪れた時は中には入れたが、2019年に再訪した際は入れなくなっていた。
【大手枡形】
 10間×11間(18m×20m)とかなり巨大な枡形で、高麗門を抜けた正面に二個、左側に一個の鏡石が組み込まれている。ちなみに、石垣の三角の小石に『幸運のハート石』と名付けて客寄せしようとしていた。近年はこの手ものをよく見かけるが、無理矢理感がたまらない。だって三角だし・・・
【大手道】
 大手門を抜け、『見返り坂』と呼ばれる坂を上り三の丸の北西に設けられた三の丸虎口に至るのが京極氏時代以降の大手道。両側の高石垣は見事なものの、平和な時代の大手道らしく、堅固な要害といった印象は無い。

搦手

【搦手門跡】
 城域南側に位置する搦手門跡。寛文10年(1670)に京極氏が大手を北側に移すまでの間はこちらが大手だった。現在は舗装された橋が架けられているだけで、門跡も残っていない。
【搦手】
 当初の大手道だけあり、周囲には見事な高石垣が見られる。まぁこの石垣は山崎氏時代のものだと思うが。門跡の礎石も残っている。
【搦手 枡形門跡】
 搦手の途中に残る枡形門跡。平和な時代に設けられた大手道に比べると、当初大手だった搦手の方が堅固な造りだったことが分かる。矢穴の残る石が多く使われている。