高松城 本丸
本丸
【鞘橋】 |
本丸と二の丸との間の幅約30mの水堀に架けられている鞘橋。本丸へと至る唯一のルートで、この橋を落とす事により、本丸を完全に独立させることが出来た。当初は屋根の無い橋だったが、文政6年(1823)の絵図では屋根付きの橋として描かれているので、松平氏の頃に改修されたものと思われる。現在の鞘橋は明治17年(1884)の天守解体時に架け替えられたもので、残念ながらぎりぎり現存と言うことにはならない。その後大正時代に橋脚が木製から石製にかえられている。
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【本丸虎口】 |
鞘橋を渡ったところにある本丸虎口。小さい枡形のように折れ曲がった虎口で、当時は櫓門だった。
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【内堀(本丸~二の丸)】 |
本丸と二の丸との間の幅約30mの内堀。現在、西側は埋め立てられて、駅になっている。
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【本丸】 |
現在は西側が埋め立てられ駅と隣接してしまっているが、当時は内堀の中に完全に独立していた本丸。比較的狭いため御殿を建てるスペースは無かった。東側に天守が建てられ、周囲の多門櫓と連結する実質上の天守曲輪だった。現在も周囲の石垣が良く残っている。
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【地久櫓跡】 |
本丸の南西隅に建てられていた珍しい名前の櫓。二重二階の瓦葺きの櫓で、建築年は不明だが、古絵図から生駒時代には建てられていたと考えられる。櫓台石垣の解体修理の結果、積み直しされた跡が見つかっており、江戸期を通じて何度か改修されたと思われる。明治期に他の建物と同様に解体され、現在は櫓台石垣のみが残っている。
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【天守台 その1】 |
本丸東側に残る天守台石垣。当初生駒氏によって築かれた天守は三重の望楼型だったが、松平頼重により、寛文10年(1670)に三重五階の層塔型天守に改築された。望楼型から層塔型への改築というのは、ほぼ建て替えのように思えるが、創建当時の資材を再利用されていたらしい。三重天守とは言え、高さは13間半(約26.5m)に及ぶ五重天守に引けをとらない規模で、最上階の外壁が一間ずつ外に張り出した南蛮造りの特徴的な天守だったらしい。明治17年(1884)に老朽化により取り壊され、その後は初代藩主松平頼重を祀る玉藻廟が建てられていた。
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【天守台 その2】 |
2007~2012年にかけて天守台石垣の解体修理工事が行われ、明治期に埋められた地階部分の発掘調査が行われた。その結果江戸時代の文献に記されたとおり、6間×5間(13.6m×12.2m)の穴蔵と田の字状に並べられた52個の礎石の他、掘立柱跡も見つかった。これだけでもかなりの規模だった事が分かるが、松平期の天守は一重目が石垣から外に張り出した萩城のような造りで、一階平面が12間×11間あったらしい。これは当時四国にあった天守の中では最大規模だった。
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【天守台 その3】 |
2009年に訪れた際は、ちょうど天守台石垣が解体修理されている最中だった。一度ほぼ全て解体し再度積み上げる大がかりなもので、石垣を元の位置に復元できるように、一石ことに番号を付けて取り外すなど、途方も無い作業が行われていた。とは言え、ここまでバラしてしまって本当に以前の状況に戻せるのか、かなり疑問視していただけに、見事に積み直された野面積みの天守台を見た時は少し感動した。当時のままの石垣が一番良いが、確かに割れや孕みの多い石垣も結構あるからなぁ。丸亀城のように崩れてしまったら元も子もないし。それにしても、高松城はかなり積極的に整備しているな。
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