Japanese Castle

高松城 帯曲輪~三の丸

帯曲輪

【旭橋】
 帯曲輪の南東に設けられた旭橋と旭門。寛文11年(1671)に三の丸に御殿が建てられてからは実質上の大手となった。この橋は門に対して斜めに架けられているが、これは太鼓櫓からの守りを意識してだろうか。当時は木橋だったが、大正元年(1912)に石橋に改造された。
【旭門】
 旭橋を渡ったところに設けられていた内枡形門。当時はこの門のすぐ南側に太鼓櫓が設けられており、太鼓櫓門と呼ばれていた。大きな化粧石も用いた見事な切込み接ぎの石垣が残っており、また北面の石垣には穴門と呼ばれる埋門が設けられている。
【穴門】
 上記の旭門の枡形に設けられている埋門。藩主の通用口や、枡形に入った敵の背後を突くために設けられたなどと言われているが、背後を突くにしては、位置的に目立ちすぎな気もする。
【艮櫓】
 城域の南西に位置するのに艮櫓。何故かと思ったら、元々は東の丸の北東隅に建てられていた櫓を昭和42年に現在の位置に移築したものらしい。 元々この場所には太鼓櫓が建てられていたが、移築に際して艮櫓の規模に合わせて城内側に石垣が拡張された。 三層三階で初層に巨大な石落としと大きな千鳥破風を設けた規模の大きい櫓で、記録によると延宝5年(1677)に建てられているが、移築修理の際、安政3年(1856)に、ほぼ解体に近い大修理を受けていることがわかった。 昭和25年に月見櫓と共に重要文化財に指定された。 石落しの取付の関係上、建物を右に90度回転させています 月見櫓より平面規模が大きく、ややでっぷりとした印象。
【桜馬場】
 城域の南側、東西に長い桜馬場。西の丸と繋がり、L字型の帯曲輪として城の周囲を守っていた。当初はここにも屋敷が建てられていたらしいが、三の丸御殿の造営時に屋敷が取り壊され、馬場となったらしい。

三の丸

【桜御門跡】
寛文11年(1671)の三の丸御殿造営に合わせて正門となった桜御門跡。両側の石垣に載る下見張板の櫓門で、幅約12m、奥行約5m、高さ約9mの正門にふさわしい規模で、昭和初期の古写真も残っているが、昭和20年に戦災により焼失した。櫓台の石垣には花崗岩が多く使われており、戦災によって焼失した際に、火に弱い花崗岩の石垣も大きなダメージを負い、近年積み直し工事が行われた。と言う事で、現在は櫓門の復元も検討されているらしい。
【披雲閣】
 生駒時代、御殿は二の丸に建てられており、三の丸は広大な庭だったが、松平氏入城後のの寛文11年(1671)に二の丸の御殿が手狭になり、三の丸に藩主の住居と政庁を一体化した御殿が建てられた。この御殿は明治期に取り壊され、現在は大正6年に建てられた披雲閣が残っている。披雲閣は142畳敷の大書院などがあり重要文化財にも指定されている立派な建物だが、松平藩時代の御殿は、この披雲閣の約二倍に及ぶ規模だった。
【ど根性松】
 披雲閣の庭にあるど根性松。景石の上に落下した松樹の種子が岩の亀裂に根を下ろし成長している天然の盆栽のような松。樹齢およそ15年らしい。
【三の丸北側石垣】
 三の丸北側に残る石垣。一部増築の跡もみられる。現在、城の北側は埋め立てられてしまい、水堀のような微妙な池で雰囲気を出そうとしているが、当時は直接海と面していた。この石垣上には多門櫓が建てられていたと思われる。
【三の丸東側虎口】
 三の丸東側に設けられている虎口。古絵図によると生駒時代はこの場所に虎口は無く、中堀に面していたが、松平氏の入城後、ここから北の水堀が埋められて、北の丸が造営された。