石垣山一夜城
石垣山一夜城について
天正18年(1590)の総勢22万とも言われる豊臣秀吉による小田原城攻略の際に、その本陣として築かれた城。
秀吉は築城の際、山頂の林に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って城壁に見せかけ、一夜で築いたように見せかけたという
伝承から一夜城と言われている。しかし、実際には4万人が動員され約80日間が費やされており、陣城と言うよりは
長期戦にも耐えうる秀吉の威信を示す本格的な城構えだった。実際に秀吉も100日余りここに滞在しており、その間に
淀君や側室を呼んだり、茶の湯に興じたりと多くのエピソードが残っている。
小田原沖を震源とする関東大震災の影響で、石垣などかなりの部分が崩れてしまっているが、現在は歴史公園となっている。
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【南曲輪石垣】 |
最初に見えてくる南曲輪の石垣。秀吉は近江の穴太衆を連れてきて築かせており、巨石を使った立派な石垣だった事が分かるが、
破城でもされたかのように、現在はかなり崩落してしまっている。これは関東大震災の際に崩れてしまったものらしい。
この周辺は石切場も多く、比較的近くから石を運べたらしいが、とは言え流石の規模。
どこまでを『石垣の城』と言うかはともかく、一応関東で最初に造られた石垣の城と言われてるのも頷ける。
当時の関東にも石垣を使った城は既にあったが、確かにこれ程本格的な石垣や総石垣の城はなかったかも。
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【南曲輪虎口】 |
南曲輪と南曲輪の虎口跡。こちらも石垣がかなり崩れてしまっているが、左に折れる坂虎口だったことが分かる。
攻められる事は基本的に想定していなかったはずだが、それなりに堅固な守りになっている。
ちなみに、この石垣の崩落の原因となった関東大震災、実は震源は小田原沖でこの辺りは相当揺れたらしい。
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【二の丸南側石垣】 |
現在は南曲輪から本丸まで直上出来てしまうが、ここは一旦遊歩道に沿って二の丸の南側を通る。
築城当時の二の丸の石垣が見えてくるが、南曲輪の石垣に比べると随分と石のサイズも小さく、高さも普通。
これくらいなら、普通に関東にもあったレベルの石垣。やはり南曲輪は大手の最初の石垣と言う事で、かなり頑張ったのだろう。
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【二の丸】 |
広大な二の丸。当時は馬屋が建てられていたらしく、馬屋曲輪とも呼ばれている。南側の本丸寄りの部分には、
馬洗場と呼ばれた湧水もあったらしいが、現在は確認できなかった。。
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【二の丸櫓台】 |
二の丸の北側に残る櫓台。位置的に微妙な感じもするが、櫓台らしい。どのような櫓が建てられていたかは分からないが、
規模はかなり大きい。
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【井戸曲輪】 |
二の丸の北東に位置する井戸曲輪。櫓台の北側の細い道を降りたところにある石垣で囲まれた曲輪で、井戸までは二の丸から25mも低くなっている。もともと沢のようになっていた地形を利用して造られているらしく、今でも水が湧き出ている。
「淀君化粧井戸」、「さざえの井戸」とも呼ばれている。一夜城の中でも特に当時の姿が残っている雰囲気のある場所。
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【二の丸北側腰曲輪】 |
二の丸の北側には、尾根を削平した細長い腰曲輪が接続しており、その北端は展望台になっている。当時から物見の役割をしていたのだろう。
またその北側には、草で確認しにくいが、尾根を断ちきる掘切が設けられている。
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【二の丸~本丸】 |
今度は二の丸南側の本丸へ。二の丸から本丸へは、西側の櫓台横から上ることが出来る。坂を上ったところには
枡形跡と思われる窪みが残っている。ここに転がっている石は枡形の石垣だったのだろう。
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【本丸】 |
最高所に位置する広大な本丸跡。別名本城曲輪とも言う。現在は木々に覆われており、小さな祠が建てられているのみ。
二の丸との比高は10m程あり、一部石垣も見られる。秀吉も石垣山城に滞在していた時は、ここで茶の湯などを楽しんでいたのだろうか。
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【本丸からの眺め】 |
標高257mで小田原城の本丸よりも200m以上高く、直線距離で3km程。城のみならず、城下全体を見渡すことが出来、
プレッシャーをかけるにはこの上ない場所。北条氏からしてみれば、本当に嫌だったろうな。
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【天守台】 |
本丸の南にある天守台。今でこそ、こんもりとした小山にしか見えないが、当時は5層の天守が建てられていたと言われている。
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【西曲輪】 |
西曲輪と呼ばれている本丸南側の曲輪。本丸の腰曲輪のようにも見える。東側に虎口の跡とみられる崩れた石垣が見られる。
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【石垣用石材】 |
城域南の登城口近くに置かれている石垣石は、江戸城修築のための石丁場から運ばれたもので、石垣山城のものではない。
石垣山の西側斜面一帯は早川石丁場と呼ばれ、江戸時代初期の石切場だったらしい。確かに、伊豆も近いしな。
矢穴も見られて、これはこれで面白い。
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