大庭城
城山と呼ばれる海抜40mほどの舌状台地の上に築かれた中世城で、古くは平安時代の末期に大庭荘を本拠として源頼朝に仕えていた相模の武将、大庭氏の拠点だったとの伝承もあるが、確かな記録は残っていない。室町時代中頃には扇谷上杉氏の支配下となり、太田道灌によって本格的な築城を行ったとされており、現在見られる基本構造はこの頃に築かれたものと思われる。その後、北条早雲によって攻め落とされ、以後小田原北条氏の支配下に置かれるが、北条時代の大庭城については、史料には殆ど登場しない。場所的に、ガッツリ小田原北条氏の勢力圏内であるため、拠点としてあまり重要視されていたとは考えにくいが、その規模や遺構からは、この時期にもそれなりに手が加えられているようにも見える。天正15年(1587)に小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、大庭城も廃城となったと思われる。現在は大庭城址公園としてきれいに整備されており、土塁や空堀などが残っている。
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主要部
【登城路】 |
城域の北西に設けられている登城路。石畳で舗装されており、だいぶ改変されているように見えるが、位置的に当時からこの辺りに登城路があった可能性もある。周囲の石垣は勿論公園化の際のもの。
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【資料館】 |
登城路の途中に建てられている資料館。直接的な関係はないと思うが、訪れたのが大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の直後だった事もあり、のぼりも沢山立てられ賑わっていた。
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【3郭】 |
登城路を登った場所が3郭にあたる。南北を空堀で区切られた東西に長い広大な曲輪で、一部に空堀と土塁が残っている。
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【3郭櫓台】 |
3郭の西側に残る櫓台状の土塁。どこまでが当時の遺構かは定かではないが、当時の登城路が現在と一緒ならば、位置的に考えてこの辺りに櫓が建てられているのが自然。しかし、この櫓台には大きな穴が。野生動物っぽいが、こうして遺構が壊されていくのだろうな。
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【3郭~4郭空堀】 |
3郭の北側が4郭。現在公園化されている部分は一部のみで、当時は現在宅地となっている部分まで城域だった。3郭と4郭とを隔てる空堀の跡が残っている。
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【2郭~3郭西側空堀】 |
3郭の南側、2郭との間には、だいぶ埋まってしまっているものの、空堀の痕跡がはっきり残っている。当時はかなり幅の広い大規模な堀だったと思われる。この堀跡は西側斜面まで続いており、そのまま竪堀となって落ちている。
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【2郭~3郭東側空堀】 |
上記の空堀と繋がる東側部分『からぼり』と書かれた石碑の裏からがこの城最大の見所。深さ5m、幅8m程の大規模な空堀が残っており、その両側の高さ2m~3mの重厚な土塁も残っている。途中から北側にクランクし、そのまま東側まで続いている。一部藪化しているものの、しっかりと形状が分かり、2郭側の土塁が高く築かれているのも見て取れる。当時はこの空堀と土塁が、現在埋まってしまっている西側まで続いていたのだろう。公園化された古い時代の城と言う事で、正直あまり期待はしていなかったが、想像を遙かに上回る遺構。
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【リス】 |
空堀の藪の中にいたリス。周囲は住宅地に囲まれているが、広大な公園の中には結構自然が残っている感じ。
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【2郭】 |
3郭と空堀を隔てた南側が2郭。3郭よりはだいぶ狭い。上記の空堀沿いの土塁の他、南側の堀沿いにも僅かに土塁が残っている。
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【1郭~2郭の空堀】 |
2郭の南側、1郭との間に残る直線状の堀。堀底は藪化してだいぶ埋まってしまっている感はあるものの、現在でも深さ2m~3m位はありそう。こちらも思っていた以上に良く残っている。
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【1郭】 |
舌状台地の先端部、城域の最南端に位置する1郭。曲輪内からは建物跡が見つかるなど、主要な郭だったと思われる。一部に土塁の跡が残っている他、西側には二段の腰郭も残っている。
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【1郭 掘立柱建物】 |
発掘調査の結果、1郭からは4棟の掘立柱建物跡が見つかっており、そのうち2棟の柱穴があった場所に標示石が埋められている。また、そのうち1棟からは炭化した米も見つかっており、分析の結果、15世紀後半から16世紀初頭に燃えた可能性が高いらしい。北条早雲に攻め落とされたのが永正9年(1512)とされているので、ちょうどその辺りの時期だろうか。
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【1郭西側腰曲輪】 |
1郭の西側には二段に渡って腰曲輪が設けられているが、一部には土塁も残っており、二重空堀のようにも見える。空堀兼腰曲輪のような役割だろうか。
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【搦手】 |
1郭の南端に虎口が設けられ、そこから搦手道が山麓まで続いている。なだらかな登城路で、ここから主郭にあたる1郭に直結とは随分手薄な感じがするが、山麓は湿地帯だった為、こちらの守りはあまり考えなくて良かったと言う事だろう。と思っていたら、流石にその辺はしっかりと考えられており、掘切が掘られていた。現在は藪になっていて分かりにくいが、規模も大きく南側山麓からのルートをしっかり分断している事が分かる。
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【舟地蔵】 |
搦手を下った山麓にある舟地蔵。北条早雲が大庭城を攻めた際、付近一帯は沼地で攻略が難しかったが、北条方は近くに住む老婆から引地川の堤を切れば沼は干上ることを聞き出し、秘密漏れを防ぐため老婆を斬り殺した。その結果、北条方は城を攻め落すことができたといわれており、舟地蔵は殺された老婆を供養するため建てられた伝えられている。しろにありがちな言い伝えではあるが、地蔵尊の台座が舟型になっているのが珍しい。
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