小田原城 天守・本丸



【天守】
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image-1  元禄16年(1703)の大地震の際に天守を始めとする殆どの建物が倒壊・焼失したが、 天守は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで残っていた。 現在の天守は、昭和35年に再建されたもので、宝永時代の再建時に作成された設計図を 参考に鉄筋コンクリートで復元されており、内部は展示室となっている。


【本丸】
image-1  本丸は東西83間(150m)、南北63間(114m)程の規模で元禄時代頃の御殿の絵図によると、 西端には天守、中央部には本丸御殿が建てられ、周囲は高い石垣と塀や櫓などで囲まれていた。 本丸御殿は寛永11年(1633)に徳川家光が宿泊する為に建てられたもので670畳もの広大な御殿だったが、 元禄16年(1703)の大地震で焼失した後再建されなかった。 また、元禄年間には7本松と呼ばれた松があったが、現在もそのうちの一本が残っており、 樹齢は400年以上と言われている。


【常磐木門】
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image-1 image-1  本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも最も大きく堅固に造られていた内枡形門。 古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていた事が分かる。元禄16年(1703) の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に再建されたものが明治3年(1870)の小田原城廃城まで 残っていたと言われている。現在の常磐木門は昭和46年(1971)に再建されたもので、 明治時代初期に撮影された写真などを参考に建てられた。常磐木とは常緑樹の意で、 門の傍らには往時から松が植えられており、松の木が常に緑色をたたえて何十年も成長する事になぞらえ、 小田原城が永久不変に繁栄する事を願って常磐木門と名付けられたと言われている。


【鉄門跡】
image-1  本丸の北に位置し、御用米曲輪を通り城外へ出る事が出来た。再建されておらず、 現在は礎石のみがが残っている。


【本丸東掘跡】
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 本丸の東側、二の丸との間に残る堀跡で、当時は水堀だった。発掘調査の結果、幅は最大で 20m以上あった事が分かっている。現在は整備され、アヤメや紫陽花などが植えられている。


【天守南側石垣】
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