小田原城
二の丸
【住吉堀】
二の丸と馬出曲輪とを隔てる堀。発掘調査の結果、江戸時代の堀や石垣だけでは無く、 戦国期の水路や障子堀なども発見され、戦国期から江戸時代にかけて 何度も造り替えられていた事が分かった。
【銅門】
住吉堀を渡った所にある二の丸の表門。本丸へと通じる登城路に位置し、 内枡形の厳重な造りになっている。飾り金具に銅が使われていた事から銅門と呼ばれた。 江戸時代のほぼ全期間を通して建っていたが、廃城後の明治5年に解体された。 現在の銅門は古写真や絵図を参考にして、当時の工法で平成9年に復元されたもの。
【銅門礎石】
二の丸内に展示されている、銅門に用いられたと思われる礎石。 柱材を固定するほぞ穴の他、石を割る際に開けられた矢穴も残っている。 それぞれ1.6tと1.8tもある頑丈な礎石。
【銅門土塀模型】
二の丸内に展示されている、銅門の土塀模型。銅門の復元に際して、 江戸時代の工法・技術を確認する為につくられたもので、当時の工法が良く分かる。
【二の丸】
江戸時代には、藩主の居館と行政を行う二の丸御殿が建てられていた。 二の丸御殿は家光が上洛の際に小田原城に宿泊した寛永年間頃が最も壮麗で、 能舞台や唐門も備えていたが、元禄16年(1703)の大地震で倒壊炎上した。 その後、再建されたものの寛永年間には到底及ばなかった。 現在は一角に歴史見聞館が建てられている。
【二の丸隅櫓】
二の丸の南東隅に位置し、三の丸の大手門を見渡せる位置に建てられていた。 明治3年(1870)の廃城後、殆どの建物が破却される中で唯一残存していたが、 大正2年(1923)の関東大震災により石垣ごと堀の中に崩落した。 現在の櫓は昭和9年に建てられたものだが、江戸期のものと比べると一回り小さい。
【堀、学橋】
二の丸と三の丸とを隔てる水堀と、水堀にかかる学橋。折角三の丸から馬出曲輪、 銅門を抜けて二の丸に入っても、この学橋が三の丸方面とつながっているので台無し感が半端ない。 当時は勿論こんな橋は無かった。