小田原城 その他のエリア



【三の丸】
image-1 image-1  二の丸と堀を隔てた東側に位置する三の丸。当時は家老級の屋敷が並んでいたが、 現在は完全に市街地化され、遺構は殆ど残っていない。

【三の丸鐘楼】
image-1  三の丸の西側にあった大手門跡。元は箱根口付近にあったが、寛永10年(1633)に 将軍家光が京都に上洛するのに備えて移された。内枡形の厳重の門だったと思われる。 現在は浜手御門にあった鐘楼が移設されている。


【お茶壺蔵跡】
image-1 image-1  江戸時代は幕府御用の茶壺を京都の宇治から江戸まで搬送しており、その一行が小田原宿に 宿泊する際に茶壺を収納する御茶壺蔵があった場所。


【南曲輪】
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 本丸の南に位置する南曲輪。崩落した石垣が広範囲に広がっている。 現在は、郷土文化館や図書館が建てられている。

【南曲輪 早川石丁場群の切石】
image-1  郷土文化館のの近くには、早川で見つかった切石が展示してある。早川周辺の山腹一帯は 寛永年間の江戸城修築に使用された石垣用の石切場が多くあり、早川石丁場群と呼ばれている。 矢穴や刻印が見られる。


【小峰曲輪】
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image-1  本丸の西側、現在報徳二宮神社の境内となっている周辺は、当時は小峰曲輪と呼ばれた場所で、 北条氏の頃につくられた石垣を用いない土塁や空堀などの小田原城の原形よ良く留めている。 堀幅は広いところで2m以上、深さは5m程あり、かなり規模が大きい。


【屏風岩】
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 本丸の裏手を守る曲輪。現在はこども遊園地となっている。


【御用米曲輪】
image-1 image-1  天守閣の北の鉄門を出た付近は江戸時代当時御用米曲輪と呼ばれ、江戸城に送る御用米を 貯える米蔵が建てられいた。御用米曲輪の周囲は石垣ではなく土塁で囲まれており、北条氏時代の 姿を残している部分と考えられている。


【御鐘ノ台大堀切】
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 本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断する大堀切で、東堀、中堀、西堀の3本からなり、 総構と共に小田原城の西側の守りの要所だった。東堀は幅25〜30m、深さは12〜15mに及ぶ 全国的に見ても最大規模の空堀で、現在でも横矢がはっきりと確認出来る他、 発掘調査の結果、堀障子や土橋状の堀残しも見つかっている。

【御鐘ノ台からの眺め】
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【八幡山古郭】
image-1 image-1  城域の線路を挟んだ北側に位置する八幡山古郭。戦国期の小田原城の主郭があったと思われる場所で、 多くの遺構が残っている。


【早川口】
image-1  豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築かれた小田原城外郭の遺構。 二重外張とも呼ばれ、外郭のなかで比較的守りの弱かった早川方面を二重の堀と土塁で 厳重に守っている。江戸期も庭園として使われていた為、住宅街の中にありながら、 遺構が良く残っている。