Japanese Castle

玉縄城跡

玉縄城跡について

 永正9年(1512)に伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦氏を三浦半島に追い詰めた際に、扇谷上杉家からの援軍を防ぐたに築いたのが始まり。鎌倉街道と東海道とを結ぶ交通の要衝に位置し、早雲の次男の北条氏時や北条綱成などが城主となった重要拠点だった。三浦氏を滅ぼした後も相模国東部の拠点となり、上杉、武田などの軍勢を退け、一度も落城する事はなかった。天正18年(1590)の秀吉による小田原征伐の際は、本多忠勝が猛攻を加えたが落ちず、家康は氏勝の叔父で大応寺住職・了達を通して説得し、開城した。その後、徳川方の城となり本多正信、水野正忠などが入城したが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。航空写真によると、昭和30年代までは遺構が残されていたらしいが、本丸跡に清泉女学院が建ち、周囲も宅地造成が進み、遺構の殆どは消滅した。現在も清泉女学院の敷地内に諏訪壇の土塁が残っているらしいが、女学院の難攻不落の警備がしかれ、容易には攻略出来ない。
【七曲り】
 本丸の南西側山麓から本丸に至る、当時の大手にあたる七曲坂。このあたりは住宅地の中に僅かながら当時の名残をとどめている場所として、玉縄城址まちづくり会議による整備が行われており、冠木門も建てられている。
【南側虎口跡】
 上記の七曲りを登ると、本丸南側に出る。現在は清泉女学院の裏門が設けられているが、当時はこちらが大手だったと思われる。切岸の跡が状態良く残っているのが分かるが、門が固く閉ざされており、これ以上は入れない。
【本丸北側土塁】
 本丸の北側にも切岸の跡が良く残っている。高低差は10m以上あり、かなり規模の大きい城だった事が分かる。