岡豊城



【岡豊城】
image-1  築城年代は定かではないが、発掘調査の結果13〜14世紀頃と思われる。その後、 長宗我部国親により永正3年(1516)頃に再興され、天正16年(1588)に元親が居城を 大高坂山城に移すまでの間、約70年間にわたり長宗我部氏の本拠地となった事で有名。 しかし、四国を平定した長宗我部元親の本拠地としては全体的に小規模で、 信玄同様本拠地が敵に攻められる事は想定していなかったようにも思われる。


【歴史民俗資料館】
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 城域の北側、現在歴史民俗資料館となっている場所も何らかの曲輪だったと思われる。 資料館建設の際にかなり改変された思われる。この資料館のすぐ南側が二ノ段になる。


【二ノ段】
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 詰の東に位置する長さ45m、幅20m程の三角形の曲輪で、南部には幅3m、 高さ1mの土塁があった事が確認されている。建物跡などの遺構は発見されていないが、 土師質土器、陶磁器など多くの異物が見つかっている。地下1.8mの地点からも 遺物が見つかっている事から、二ノ段は詰めから運ばれた土砂によって造られたと考えられている。


【詰〜二ノ段】
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 詰と二ノ段を隔てる堀切。幅約4m、深さ2m程でさほど規模の大きなものではないが、 岡豊城にある堀切の中では最大。堀切の中央部には、岩盤を掘った井戸が掘られている。


【詰下段】
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 二ノ段から空堀を渡ったところにある詰下段。詰の東二付属する小郭で、礎石建物跡や 土塁などが見つかっており、二ノ段から詰への虎口を守る為の曲輪と思われる。 礎石建物は2間×5間(5.8m×9.2m)で、半間毎に礎石が置かれている。 また、土塁は幅二.5m、高さ1m以上あったと考えられ、基部には2〜3段の土留めの 石積みが見られる。


【詰】
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 標高97mの岡豊山の山頂に位置する本丸にあたる曲輪。1辺約40mの三角形で、曲輪内からは 建物の礎石や石敷遺構の他、自鎮の遺構や溜井、土杭、柱穴などが発見されている。 また、南側と西側の一部には土塁が残っている。

【詰 建物跡】
image-1 image-1  詰で発見された建物の礎石と石敷遺構。さほど広くはないが、岡豊城の中心となる建物と考えられ、 長宗我部元親もここに居住していたと思われる。


【三ノ段】
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 詰の西側と南側をに位置する曲輪で、西側の土塁の内側には高さ1m程の野面積みの石垣が残っている。 また、石垣の内側に東西3間〜4間(6.2m〜8.6m)、南北9間(16.9m)の礎石建物跡が三ノ段の幅いっぱいに 礎石建物跡が建てられており、建物跡からは鉄鍋や石臼なども出土している。


【三ノ段南側】
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image-1  三ノ段は詰を取り巻くように、幅5m程の帯曲輪状に南側まで続いている。 南側にも土塁の内側に石垣があったらしいが、殆ど崩れており現在は残っていない。


【三ノ段〜四ノ段】
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 三ノ段から四ノ段へは、虎口を守る出枡形のような小曲輪を経由して下っていく。 小曲輪の内側と虎口には石垣が見られる。


【四ノ段北側虎口】
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 三ノ段から続く虎口は四ノ段の北側につながり、そのまま腰曲輪方面に下りる虎口とつながっている。

【四ノ段】
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image-1  三ノ段の西側、一段下がったところに位置する曲輪。南側の土塁上には 『長宗我部氏岡豊城跡』 の石碑が建てられている。

【四ノ段南側虎口】
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 四ノ段南側の虎口にも出枡形のような小曲輪が設けられている。ここから西に下ると厩跡曲輪方面へと続く。


【空堀】
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 四ノ段北側虎口を下りた場所には、三ノ段と四ノ段の間の馬出し状の曲輪の周囲に巡らされた空堀が 明瞭に残っている。当時は幅2.5m以上あったと考えられている。


【竪堀・腰曲輪】
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image-1  四ノ段の西側、伝厩跡曲輪方面へと続く斜面には多くの竪堀が掘られ、その間に腰曲輪も見られる。 他に比べると西側は傾斜が緩やかな為、防御を特に意識していたと思われるが、竪堀の規模は小さい。


【堀切】
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 出城にあたる伝厩跡曲輪と本城エリアとを隔てる堀切。この部分の尾根は細くなっており、 ここに堀切を入れたのは想像しやすい場所だが、現在は舗装道路が出来てしまっているので、 堀切跡ははっきりとは分からなかった。


【堀切】
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 出城にあたる伝厩跡曲輪と本城エリアとを隔てる堀切。この部分の尾根は細くなっており、 ここに堀切を入れたのは想像しやすい場所だが、現在は舗装道路が出来てしまっているので、 堀切跡ははっきりとは分からなかった。


【伝厩跡曲輪】
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 本城の西側を守る出城にあたる伝厩跡曲輪。東西30m、南北17m程の曲輪で、 北西には二重堀切が掘られ、南斜面には竪堀が連続して掘られている。

【伝厩跡曲輪 腰曲輪】
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 伝厩跡曲輪の南側斜面の腰曲輪。現在は子供広場となっているが、 遊ぶ子供もおらず遊具も壊れている。


【北側腰曲輪】
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 城域の北側を取り巻く腰曲輪。上下二段に分かれており、上段には随所に石垣も見られ 櫓台のような石垣も残っている。下段の外側には僅かに土塁も残っており、竪堀も数多く入れられている。

【北側腰曲輪 石垣】
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 三ノ段意外には基本的に石垣の少ない岡豊城だが、この辺りは比較的明瞭に石垣が残っている。 櫓台と思われる角を持った石垣。

【北側腰曲輪 竪堀】
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 北側腰曲輪に掘られた竪堀群。確認できただけでも7〜8本の竪堀が集中して掘られており、 上段まで続いているものもあるが、全体的にはこの辺りの竪堀も規模は小さい。


【三重堀切】
image-1 image-1  腰曲輪の北側に続く尾根を分断する三重堀切。深さ3m程で規模はそれほど大きくないが、 形良く残っている。当時はもっと深かったものと思われる。


【北側腰曲輪】
image-1  三重堀切の北側の曲輪。現在は鉄塔が建っているが、当時は物見櫓などが建てられていたと思われる。 この北側斜面はすぐに岡豊山霊園。実際の城域はこの辺りまでだったと思われる。


【味元家】
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image-1  北側の山腹に、東津野村から解体移築された山村民家。6間×3間半(11m×6m)の規模で、 解体時に天保3年(1832)の墨書きが発見されている。


【岡豊山霊園】
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 城域の北側に広がる岡豊山霊園。岡豊山の北側斜面を利用して建てられており、 上部は北側の腰曲輪と隣接している。霊園造成の際に改変されていると思われるが、 この辺りが、固い岩盤で出来ている事が分かる。