麦島城跡


【麦島城跡】
 天正16年(1588)、宇土、益城、八代、天草の領主となったキリシタン大名、小西行長が家臣小西行重に 命じて築かせた城で、当時は八代城と呼ばれていた。中世の山城から近世の平城に移り変わる時期に築かれた もので、最も古い近世城郭の一つ。前川と球磨川に囲まれた島状の地形にあり、当時西側は海に接していたと 考えられている。関ヶ原の合戦後にはこの一帯を治めた加藤清正の支城となり、改修が行われた。 元和元年(1615)に一国一城令が出されたが、特例として熊本城と麦島城の二城が残された。しかし、元和四年 (1619)の大地震により崩壊したため、北側対岸に八代城が築かれ、麦島城は廃城となった。 平成8年から15年にかけて行われた発掘調査では、東西約400m、南北約350m程(本丸は130m四方)で、 複数の曲輪がある本格的な近世城郭だった事が分かったほか、金箔鯱瓦や倒壊した多聞櫓、小西行長が文禄の役 の際に持ち帰った瓦などが見つかった。


【天守台跡】
 麦島城の北西隅にあった天守台の跡。当時は三層の天守閣の他、小天守も並んで建っていたと考えられている。 現在は僅かに小高くなった場所に碑が立ち、周囲には石灰岩の白い石垣が僅かに残っている。


【本丸跡】
 天守台跡のすぐ南からは、道路建設に伴う調査の際に小天守の石垣も見つかっている。現在は埋め戻されている。


【本丸跡】
 かつて本丸があった付近は道路が敷かれているが、僅かな高低差が名残をとどめている。


【二ノ丸跡】
 現在、シルバーワークプラザが建てられている付近がかつての二の丸の一部と考えられており、近くには『大手口』 という地名も残っている。平成12年からの、建設による発掘調査時に南北20mにわたる石垣が出土し、合坂と 呼ばれる階段部分も出土した。現在はその大半が埋め戻されたが、一部の石垣は露出展示してある。