宇土城


【宇土城】
 キリシタン大名として有名な小西行長が天正16年(1588)に築城した近世城郭で、標高16mの丘に内堀で 囲まれた本丸を築き、その西側と南側には二の丸と三の丸を配置され、外堀まで含めた城域は南北500m、 東西550mの大規模な城郭だった。関ヶ原の戦いでは加藤清正が此の城を攻めたが、守りが堅く落ちなかったと 言われている。西軍が敗れ、小西行長が処刑された後は、この地を治めた加藤清正により大規模な 改修が行われたが、清正の死後幕命により破却され、さらに寛永14年(1637)の島原の乱後も徹底的に 破壊された。その後、正保3年(1646)に細川行孝が3万石を分知され、宇土藩を創設し、ここに陣屋を構えて 以降、細川家は11代続き明治に至った。 昭和40年代の発掘調査で石垣などが発見され、昭和53年からの公園整備に伴う発掘調査では小西時代の 下層遺構や加藤時代の上層遺構などの他、瓦や鎧、さらに下層からは中世、古墳時代、弥生時代の土器など も発見された。


【本丸跡】
 熊本城の宇土櫓はここにあった天守を移築したものと言われていたが、昭和末期の解体修理の結果、 否定されている。本丸周辺は清正が改修の際に盛り土したと言われており、小西時代の遺構は地下 2m程の場所から発見されている。それによると当時は現在ほど広くはなかったと考えられている。  現在、広大な公園の一角には小西行長像が建てられており、その東側には腰曲輪のような地形も残っている。


【本丸西側】
 本丸の西側は加藤期の石垣が一部に残る以外は基本的に急崖で形成されている。現在の入り口は 直線的な階段になっている。


【本丸西側 石垣】
 本丸西側に残る加藤清正時代に築かれたと言われる石垣。熊本城と同じ打込みハギで積まれている。 現在は2m程露出しているが、地下にも同じくらい埋まっている。


【二ノ丸跡】
 本丸の西側には幅15m程の堀跡があり、その外側の小高くなった部分が二の丸跡。現在は一面墓地と なっており 『二の丸墓地』 と呼ばれているらしい。


【三の丸跡】
 二の丸の南に位置する三の丸。こちらは宅地化が進み、大きく改変されているが、周囲と比べると僅かに 小高くなっている。


【本丸南側石垣】
 本丸の南側にも石垣が残っているがこちらも高さはない。


【本丸東側石垣】
 東側には一面石垣が残っておりその石垣の上は急勾配な土塁となっている。石垣は高くないが、 この下埋まっているのだろうか?