宇土古城跡


【宇土古城跡】
 標高39mの小高い丘陵上にある平山城で、東西約700m、南北300mの規模。小西行長により築かれた 宇土城とと区別するため宇土古城、もしくは中世宇土城などと呼ばれている。 永承3年(1048)に菊池氏により築かれ、室町時代に菊池氏の一族である宇土氏と名和氏が城主に なったと言われている。小西行長が近世宇土城を築いた頃から使われなくなったと考えられている。 昭和49年からの発掘調査により、掘立柱建物跡や、堀、門跡などの遺構が多数発見され、現在は 歴史公園として整備されている。 また、この場所は城が出来る以前から栄えており、縄文時代の貝塚や、九州地方で最大規模となる 古墳時代前期(4世紀)の集落跡や豪族の住居跡なども発見されている。


【主郭】
 宇土古城は東側の千畳敷を中心とする主郭と、西の三城に分けられる。主郭の周囲は 二重の堀と同心円状の腰曲輪が何段も造成されている。

【千畳敷】
 主郭の千畳敷では多数の柱穴が確認されており、重なったものもある事から、何度も建て替えが 行われていた事が分かっている。いずれも掘立柱建物で、瓦が出土しない事から板葺きもしくは茅葺き だったと考えられており、一部復元されている。いずれも16世紀後半頃のものと考えられている。

【土橋、虎口跡】
 主郭東側の虎口。内堀に土橋が架かり、直角に曲がる虎口に続いている。 ここも内堀同様石材強化され、周囲の木柵が復元されている。

【主郭空堀】
 主郭の周囲は二重の空堀が掘られていた。内堀からは未完成の部分や石塔など珍しい 遺構が発見されているが、現在は石材補強されている。外堀は幅約2〜4m、深さ約1.5mで、 南側の虎口付近10mを除いた周囲約130mを囲っていたが、現在は埋め戻されてその位置だけが 分かるようになっている。良く整備はされているのだろうが、かなり違和感があり微妙な感じ。

【未完成の内堀跡】
 北側の堀底には畝のような形状が見られるが、これは『小間割』と呼ばれる工区分けの跡、 もしくは堀の掘削過程のもので、、何らかの理由で工事が途中で中止されたものと考えられている。 中世城郭での未完成の掘跡は他では発見されておらず、非常に珍しい遺構。

【内堀に投げ込まれた石塔】
 内堀の虎口付近で大量の石塔(墓石)が出土した。意図的に投げ込まれたものと推定されており、 石塔の投棄により『城破り』(城の生命を断ち切る儀礼)の跡と考えられている。これは全国的にも 数例しか確認されていない珍しいもの。現在は埋め戻され、一部が石材強化され展示されている。

【竪堀跡】
 主郭東の竪堀。傾斜が緩いので、竪堀と言うよりは切通しの通路のような感じになっている。


【腰曲輪】
 主郭と三城との間にも数多くの腰曲輪が造成されている。元々傾斜が少ない地形なので、 一段一段はそう高くはない。


【三城】
 主郭の西側に位置する三城。周囲は切岸で守りを固めており、西側には幅約10mの 巨大な堀と土塁が築かれていた。

【三城 建物跡】
 三の丸とその周辺からは20棟以上の掘立柱建物跡が確認されているが、主郭同様 瓦が出土しない事から板葺きもしくは茅葺きだったと考えられている。その一部の柱跡は 整備されて展示されている。これらの建物の西側には建物が全く存在しない場所がある事から、 当時は庭園があったと考えられている。

【三城石垣】
 三城の一角に石垣が見られたが、中世の城で石垣があったかは微妙。おそらく後世のもの。

【三城土塁】
 曲輪の周囲には僅かに土塁のようなものが見られるが、かなり整備されている様子なので、 当時の遺構では無さそうな感じ。


【腰曲輪跡】
 城の西側には幅20m程の腰曲輪が配置され、城の守りを堅くしていた。この腰曲輪の跡からは掘立柱 建物の跡や素焼きの小皿などが大量に発掘されている他、古墳時代中期頃につくられた箱式石棺も見つかっている。