福知山城
福知山城について
丹波侵攻の拠点として、明智光秀により天正7年(1579)に横山城があった場所に築かれた。築城工事が急がれたのか、当時の石垣には多くの転用石が見られる。光秀の後は次々と城主が入れ替わり、関ヶ原の頃には西軍の小野木重勝の居城となっており、細川忠興に落とされている。江戸時代になると有馬豊氏6万石で入り、惣構えを持つ近世城郭に造り替えられた。その後、松平氏を経て朽木氏が入り13代にわたって明治期まで続いた。明治期になり本丸まわりの一部を除いて全て破壊されたが、近年天守が再建され整備が進んでいる。2020年の大河ドラマは明智光秀らしいので、さらに整備されるだろう
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【石碑と登城路】 |
城域東側から登城する。水堀代わりだった法川に、現在は昇龍橋というやたらと立派な橋が架けられている。こんな橋を架けられたら、水堀などひとたまりも無い。それにしても、何故こんなに頑張った橋を?
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【多門櫓】 |
上記の派手な橋を渡った辺りには、それっぽい感じの多門櫓が建てられているが、模擬っぽい。内部は美術館になっている。
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【登城路】 |
順路に沿って本丸の北側石垣下を通り、北側の虎口から本丸へ。本丸までの比高は20m程だが、それなりに堅固な造りになっている印象。途中に転用石がまとめて置かれている場所があった。
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【本丸西側】 |
本丸に到着。本丸には中央に天守台が設けられており、東西に分かれている。北側の虎口から入る場所は本丸の西側にあたり、ここだけでもかなりの広さがある。当時はここに御殿などが建てられていたのだろう。当時はここから西側に二の丸が続いていた。
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【銅門番所】 |
本丸の西隅に移築されている銅門番所。城下の対面所から二の丸への登城口にあった銅門の横にあった番所で、城内に残る唯一の現存建物。(門を除く)棟の四隅には建築当時の藩主だった朽木氏の家紋が見られる。
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【転用石】 |
福知山城の石垣には、自然石に混ざって五輪塔・宝篋印塔・石仏・石臼などの多くの転用石が見つかっており、その一部が登城路の途中や本丸内に置かれている。これらは天守台付近に集中しており、500個以上見つかっているらしい。古いものは延文4年(1359)の刻印が刻まれているものもあり、積み方などから明智時代に積まれたものと分かっている。これらは反抗的だった近隣の寺社を打ち壊すなどして巻き上げたと言われている一方、地元では必ず再建する事を約束して石を集めたとも言われている。どちらが本当なのかは分からないが、善政をしていたこともあり、やはり地元では慕われていたらしい。
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【二の丸跡】 |
現在、本丸は独立丘のようになっているが、当時は本丸の西側に台地が続き二の丸が設けられていた。しかし、戦前に陸軍の福知山連隊によってごっぞり削られてしまったらしい。台地ごと無くしてしまうなんて、もう遺構破壊どころではない。
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【復元天守】 |
本丸の中央に位置する天守。何度か増築・改築されていると思われるが、古絵図などを元に初期天守の様式を再現した三層四階の望楼型の複合天守で外観復元されている。一見鉄筋コンクリート造りとは思えない見事な復元で、福知山のシンボルになっている。光秀が築城した当初の天守は、当時としては珍しく全ての階に畳を敷き詰め、押入れや棚、厠を設けるなど、居住出来る造りになっていたらしい。
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【天守台石垣】 |
多くの転用石が集中している天守台石垣。特に南面に多く見られる。基本的に野面積みで積まれており、光秀時代に積まれたものと考えられている。一部に増築の跡などもみられる。
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【本丸東側・豊磐井】 |
本丸の東側へ。こちらは神社が建てられており、その一角に豊磐井と呼ばれる大きな井戸が掘られている。朽木時代になって掘られたものと思われるが、海抜43mの本丸に比して深さ50mあり、現在も水をたたえている。ちなみに、本丸にある井戸としては一番深いらしい。
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【釣鐘御門】 |
本丸は東側にも急な虎口が設けられており、虎口部分には釣鐘御門が復元されている。
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【銅門跡】 |
城下に残る銅門跡。現在は煙滅しているが、この辺りは当時二の丸の北西隅に位置し、主要な登城路だったらしい。この門の横にあった銅門番所は、現在本丸に移築されている。
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【伯耆丸】 |
削られた二の丸を隔てて西側に位置する伯耆丸。実質上の三の丸。ここは削られずに残っており、周囲は切岸っぽくなっているが、何しろ二の丸がごっぞりけずられているので、この辺りの切岸も当時のままかは怪しい。ここから本丸までは直線距離でも100m以上ある。この間を削ってしまうってホント凄い事するなぁ。
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