明治中期以降、昭和30年までは京都市水道局の貯水池として使用され、地元では「水源池」と呼ばれていた。
堀の構造は、東西に「E」型をしており、一段ないし二段の「武者走」をもうけている。昭和55年秋、石垣列確認の
発掘調査を実施、南斜面より長さ8メートル、高さ1.5メートルの石垣列を検出、その後、平成2年・3年と2回発掘
調査を実施、数ケ所にて石垣等を確認、崩壊を防止する必要上埋め戻した。中央部分の突出部の南からは堀を
埋めた様子が確認され、この北堀とこの南側の内堀とが、かつて繋がっていたことを示していた。
発掘調査終了後、平安建都1200年記念事業の一環で、スポーツ公園として整備された。
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