天正8年(1580)に丹後を平定して入国した細川藤孝・忠興により築城された平城。関ヶ原の際、藤孝はここを焼き払って、田辺城に籠城している。その後、京極高広により大改修され本丸・二ノ丸・三ノ丸を備えた近世城郭となった。しかし、京極氏は2代で改易となったため、その後は城主は次々と入れ替わりながらも、明治まで存続した。現在は跡形も無く煙滅しているが、一部に石垣などが見つかっている。 |
【案内板】 |
---|
これと言った遺構が残っていないが、街中の一角に『宮津城址』の案内板とともに本丸虎口のくろがね門で使用されていた巨石が置かれている。この辺りは当時は城北西部の二の丸だったと思われる。 |
【太鼓門】 |
---|
現在、宮津小学校の正門として使われている門は、宮津城の南側にあった太鼓門と言われている。唯一残る建造物として貴重で、何度か移築された後、近年この場所に修復整備された。 |
【大手川沿いの石垣】 |
---|
大手川の東岸に残る石垣。大手川の改修工事で見つかったものらしく、現在は石垣上に塀が築かれ、城っぽい雰囲気になっている。 |