勝竜寺城



【勝竜寺城】
image-1  暦応2年(1339)、細川頼春によって南朝方の攻撃から京都を守るために築城されたと言われている。 その後も室町時代を通じて重要な拠点となり続け、元亀二年(1571)に織田信長からこの城を与えられた 細川藤孝により、二重の堀と土塁を持つ立派な城に改修された。現在見られる遺構はこの頃のもの。 その後、本能寺の変後の山崎の合戦では光秀の家臣の三宅綱朝が勝竜寺城を守ったが、秀吉軍に 攻められて落城し廃城となった。 近世に入ると、淀古城の修築にその石材が使用されるなどしたこともあって荒廃したが、 現在は発掘の結果に基づいて復元され、歴史公園として整備されている。


【本丸跡】
image-1 image-1  東西約105m、南北約70mの本丸の周囲は土塁が巡らされ、その外側には幅広い水堀が掘られていた。 西半部では南北方向の堀や暗渠になった溝、建物の礎石や井戸などが見つかっている。 現在は整備され、歴史公園となっている。

【本丸水堀】
 現在は細い水路のような堀になってしまっているが、当時は幅15m、深さ3mはある 規模の大きな堀だったらしい。特に住宅が迫っている北側の堀は寂しい感じだが仕方が無い。
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【南門】
image-1 image-1  本丸南側の中央部からは杭列や大きな石垣が見つかっていることから、ここに南門があったと思われる。 現在は枡形で再現されている。

【北門】
 本丸の北西隅に位置する虎口で、周囲は高さ2m以上の石垣で囲まれていた。 現在は門は残っていないが、当時は一の門、二の門に囲まれた枡形だったと思われる。 この門から山崎合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したと言われている。
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【北側虎口】
image-1  本丸北側中央にある虎口。北側にはこの虎口の他に北門もあるので、当時から ここに虎口があったかは分からない。後になって通用門として作られたっぽい感じがする。


【本丸土塁】
 本丸の周囲を取り巻く土塁。高さは4〜5mあり、土塁の裾には鉢巻石垣を伴っていた。
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【東側土塁】
image-1 image-1  本丸東側の土塁からは幅4mの二列の石垣が見つかっている。この石垣の上には 北東の隅櫓とつながった多門櫓が建てられていたと考えられる。 また、土塁の斜面には井戸も設けられていたらしい。

【西側土塁】
 本丸西側の沼田丸とを隔てる土塁の中央部には、沼田丸と行き来するための階段状の通路が 作られていた。また、この土塁の南側からは大きめの石などが多量に見つかっている事から、 隅櫓が建てられていたと思われる。
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【西側土塁】
image-1  西側土塁は南側に張り出して築かれており、ここから本丸の南側が見渡せる。当時は ここに櫓が建てられ、南辺を守っていたと思われる。

【櫓台】
image-1  本丸の北東隅から高さ4mの石垣で築かれた櫓台が見つかっている。櫓台は10m四方あり、 この櫓台に上る階段も発掘されている。現在は屋根付きの休憩スペースとなっている。


【管理棟】
image-1 image-1  南門の横に建てられた櫓風の管理棟。資料館となっており、ジオラマなどが展示されている。

【細川忠興とガラシャ】
image-1  勝竜寺城と言えば、やはり明智光秀の三女、玉(細川ガラシャ)と細川忠興が有名。 本丸には二人の銅像が建てられている。

【井戸】
image-1  本丸から4カ所の井戸が見つかっており、そのうち3カ所が細川藤孝による城の改修時に 掘られたものである事が分かっている。この井戸の直径は0.9m、深さ2mで石を積み上げた立派なものだった。


【沼田丸】
image-1  本丸の西側に位置する沼田丸。現在は広場となっており、特に遺構は見られなかった。