田辺城
田辺城について
丹後を平定した細川藤孝(幽斎)によって天正11年(1583)頃に自身の隠居城として築かれた平城。当初は宮津城の支城として築かれたが、関ヶ原の際、主力はこの忠興が率いて出陣していたため、藤孝は宮津城を焼き払い、この城に500人に満たない手勢で立て籠もり、1万5千の軍に対して50日間以上持ちこたえた。しかし、落城寸前となり藤孝に相伝されていた『古今伝授』が途絶えることを恐れた朝廷が勅命を出して和睦した事で有名。関ヶ原後、細川氏は豊前小倉に移り、その後京極氏を経て寛文8年(1668)に徳川譜代の牧野氏が入城。牧野氏は明治維新まで10代続き、その間丹後田辺藩の政治経済の中心として機能した。現在は本丸周辺のみが公園として整備されている。
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【大手門】 |
本丸の西側には立派な大手門が石垣とともに建てられているが、完全な模擬建造物で、この場所は当時の水堀の上。ややこしい場所にそれっぽく建てられているので、この門の内側に残る天守台を見た時、状況がよく分からなかった。
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【資料館】 |
大手門の内部は資料館となっており、細川幽斎像や田辺城の復元模型などが展示されている。
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【隅櫓】 |
本丸の北東隅に建てられている隅櫓。こちらも模擬櫓だが、位置的に当時の櫓台の上に建てられているものと思われる。大手門とともに田辺城のシンボルとなっている。
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【本丸跡】 |
広大な本丸跡。当時はここに御殿が建てられていたと思われる。現在は公園となっているが、西側に天守台、北面には石垣が残っている。また、公園の一角には城を模した感じの遊具も造られている。
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【天守台】 |
東西21m、南北31m程の穴太積みで積まれた細川氏築城当時の天守台。復元門の内部にある為、一瞬場所がおかしい気がするが、当時はここが本丸の西隅にあたり、現在門が建てられている辺りは水堀だった。積み方から細川氏の頃に築かれたものと思われ、発掘調査の結果、基底部に土台となる胴木を用いた珍しい造りだったことが分かった。しかし、天守の存在は確認されていない。
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【本丸井戸】 |
本丸北側の石垣が半円状に凹んだ部分があり、発掘調査の結果、当時はここに井戸があったことが分かっている。井戸のために石垣の形状を変えているのは珍しい気がする。井戸の底からは細川氏や京極氏の頃の瓦や陶磁器などが見つかっているらしい。京極氏の頃に埋められて、その後は屋敷として利用されていたと考えられている。
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【本丸石垣】 |
本丸北面に残る石垣。比較的大きな石材を用いた野面積みで、細川氏の頃に築かれたものと思われる。北東隅には鬼門除けと思われる切り欠きも見られる。
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【本丸北東隅櫓台】 |
本丸北東隅に位置する櫓台。石の積み方から、京極氏が入城した慶長の頃に改修されているものと思われる。
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【水堀跡】 |
本丸石垣の東側にあるアヤメ池とその北側の池は本丸周囲の水堀の名残らしい。
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