亀山城


【亀山城】
 天正十八年(1590)岡本良勝によって築城された城で、蝶の群れが舞う姿にたとえられて「粉蝶城」とも呼ばれている。。当初は 三層の天守閣があったが、寛永九年(1632)に幕命により解体され、正保年間(1644〜47)天守台に多聞櫓が築かれた。 天守台南面の高石垣は、直高14.5メートルもあり、野面石(自然石)をで積まれている。江戸時代前半には幾度も城主が交替したが、 延享元年(1744)六万石で石川総慶が入封後は、明治まで11代にわたり石川家が続いた。


【多聞櫓】
 明治期には士族授産の木綿工場として使用されたため破壊されずに現在まで残り、三重県で唯一現存する城郭建造物 として県史跡に指定されている。


【楠門跡】
 二の丸から本丸へ通じる枡形門で、櫓門は安政元年(1854)の大地震で倒壊した。


【三重櫓跡】
 寛永18年(1641)に当時の城主本多俊次が、天守閣の代わりとして築いた。亀山城で唯一の三階櫓だった。


【土塁・堀跡】
 本丸・二の丸の東側、三重櫓の横にはかなりの高さの土塁と堀跡が残っている。


【二の丸跡】
 亀山城内最大の曲輪で、城主の居館である御殿や、向かい屋敷、櫓等の多くの建物が建てられていた。現在は小学校、 市役所になっている。


【築山跡】
 二の丸御殿の庭につくられた小山。古い図面にかかれている場所に発掘調査で見つかった瓦で位置を示している。


【二の丸御殿の礎石】
 柱をすえたとみられる四角のほりこみがあり、二之丸御殿の礎石とみられている。また、黒い玉石は二之丸御殿の玄関前に しきつめられていたもので、これらは、亀山西小学校の工事前に行われた発掘調査で見つかった。


【埋門跡】
 二の丸西側、帯曲輪との間につくられた埋門の跡。亀山城に残る6カ所の帯曲輪への出入口は全て埋門だった。 幕末に他の建物と共に取り壊されたが、平成15年の発掘調査で通路や石垣が発見された。幅1.8mで江戸時代には 石垣が積み直されていた。


【帯曲輪】
 埋門下の一段低くなったところに位置する帯曲輪。亀山城にはここをあわせて、6カ所の帯曲輪があった。東西43m、南北6.5mの 小規模なものだが、明治時代以降に大部分が取り壊された中で、この辺りは本来の城の姿を良好にとどめている。 また、帯曲輪の周囲には土塀が復元されている。