松坂城



【松坂城】
image-1  天正16年(1588)に蒲生氏郷によって標高38m程の独立丘陵上に築かれた総石垣の平山城。 蒲生氏郷は安土城の築城に携わっていた事もあり、松坂城も安土城を真似て造られたと言われている。 しかし、完成後間もない天正18年(1590)に蒲生氏郷が会津に移封され、その後服部一忠、 古田重勝・重治らが城主となり、元和5年(1619)に徳川頼宣が和歌山藩主になると、 松坂も和歌山藩領となり、以降明治に至るまで、紀州徳川家の城代が置かれた。 明治14年(1881)に松坂公園となり、現在でも本丸・二ノ丸の石垣が良く残っており、 国の史跡に指定されている。


【表門跡】
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image-1  大手にあたる北側の表門跡。規模の大きな枡形の石垣が残っており、 当時はこの石垣上に本瓦葺二階建ての櫓門が建てられていたが、明治初期に破却された。


【大手道】
image-1 image-1  表門を抜けると、正面に二ノ丸の石垣がそびえ、左右に道が分かれる。右に行くと 歴史民俗資料館を通り本丸下段へと向かい、左に行くと、土戸門を抜け二ノ丸に出る。


【歴史民俗資料館】
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 表門を抜けたところにある歴史民俗資料館。明治45年に大正天皇の行啓を記念して 図書館として建てられたもので、本館と倉庫は国の登録有形文化財になっている。 ちなみに、ここに100名城のスタンプが置いてある。


【二ノ丸】
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image-1  二ノ丸には寛政6年(1794)に徳川陣屋と呼ばれる二ノ丸御殿が建てられ、役所として機能していた。 明治期に焼失し、他の建物も破却され現在は建物は何も残っていないが、周囲の高石垣は近年積み直され 全周にわたり残っている。


【助左衛門御門跡】
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image-1  表二の門にあたる門。城主だった古田重勝の弟、古田助左衛門にちなんで助左衛門御門と 呼ばれていた。遠見櫓と鐘ノ櫓の高い櫓台石垣の間を通る食違い虎口になっており、 当時は表門と同形式の櫓門が建てられていた。


【本丸下段】
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 助左衛門御門を抜けたところが本丸下段。本丸は上段と下段に分かれており、 下段は東角に月見櫓、南角に太鼓櫓が建てられ、周囲は多聞櫓が建てられていた。

【本丸下段 月見櫓跡】
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 本丸下段東角にあった二重櫓。台所棟と付属舎が付いていたが、 17世紀中頃に破損し再建されなかった。


【本丸下段〜上段 虎口】
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 本丸下段から本丸上段へと続く虎口。二度折れ曲がる厳重な虎口になっている。

【本丸上段】
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 城山最高所に位置する本丸上段には天守や金ノ間櫓が建てられ、それらを多門櫓で結ぶ 天守曲輪のような造りになっていた。現在でも天守台や櫓台、周囲を取り巻く多門櫓の石垣が残っている。

【本丸上段 天守台】
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 本丸上段東隅に位置する天守台。16m×17mの不等辺四角形天守台の上には 当時は安土城に似た望楼型の三重天守が建てられていたと言われているが、 正保元年(1644)の大風により倒壊し、再建されることはなかった。 江戸時代は支城だったこともあり。中心部分はあまり改変されておらず、 天守付近は築城初期の野面積みの石垣が残っており、一部には古墳時代の石棺材も使われている。

【本丸上段 敵見櫓跡】
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 天守の北側に連結していた敵見櫓跡。小天守のような役割があったと思われる。 ここから多門櫓が連結し、本丸上段の周囲を守っていた。

【本丸上段 北側石垣】
image-1 image-1  本丸上段の北側石垣には、排水溝のような穴が開けられている。 この下方には瓶のような形になっているので、結構な水量が排水されていたものと思われる。

【本丸上段 金ノ間櫓跡】
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 本丸上段東角にあった二重櫓。他の櫓より規模が大きく、天守に匹敵する規模で、 金ノ間櫓と呼ばれている事から、内部を金箔で飾った部屋があったと思われる。 当時は台所棟と付属舎が付いていたが、17世紀中頃に破損し再建されなかった。 また、金ノ間櫓のすぐ南側には虎口があるが、櫓からも本丸下段に階段が設けられている 珍しい造り。何らかの使い分けがされていたと思われるが、詳しい事は良く分からない。

【本丸上段 本丸井戸】
image-1  本丸上段に設けられた井戸。現在は網がかぶせられ、水はなさそうだった。

【本丸上段〜きたい丸】
image-1  天守台横からきたい丸に通じる虎口。食違いや門跡があるわけでも無く、 当時からの遺構かは良く分からない。


【きたい丸】
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 本丸上段の南西一段下がったところに位置する曲輪で、直接城外に出る虎口がない珍しい造り。 古田氏が慶長期に改修しており、重勝の子 重恒の幼名である希代丸にちなんでいる。 現在でも周囲の石垣が見事に残っている。


【帯曲輪】
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 きたい丸の南側を取り巻くように設けられた帯曲輪。周囲には土塁が残っており、 総石垣の松坂城において、この辺りだけ中世の雰囲気が感じられる。


【隠居丸】
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image-1  本丸の南側、一段下がったところに位置する曲輪で、古田重勝が隠居するために設けた 曲輪と言われている。周囲には高石垣が築かれ、 搦手筋を厳重に守っていた。 現在、曲輪内には現在は隠居丸本居宣長の旧宅が移築されている。

【隠居丸 本居宣長邸】
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 隠居丸には本居宣長が12歳から72歳で亡くなるまで暮らした旧宅が移築されている。 書斎の床の間に鈴が架けられていた事から『鈴屋』と呼ばれている。本居宣長の祖父により 隠居所として元禄4年(1691)に魚町に建てられ、明治42年(1909)に隠居丸に移築された。 現在は国の特別史跡に指定されている。

【隠居丸 米蔵跡】
image-1  江戸時代末期にはここに宝蔵、米蔵、道具蔵が建てられており、そのうち米蔵は明治初期に 三の丸跡の御城番屋敷に移築され、唯一の現存建築物となっている。

【隠居丸 櫓台】
image-1 image-1  隠居丸南隅の櫓台石垣。高さ10m以上の見事な石垣が残っている。

【隠居丸 埋門跡】
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 隠居丸南西虎口は埋門となっている。現在は本居宣長記念館の入口として通路っぽくなってしまっているが、 周囲の石垣が残っている。


【中御門跡】
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image-1  本丸下段の太鼓櫓を回り込むようにして設けられた搦手の途中に設けられた中御門跡。 当初は櫓門だったが、茅葺平屋建に改修され、明治14年に表門・裏門などと一緒に破却された。 細い道を何度も曲げられており、当時は周囲の石垣上に土塀が設けて守られていた。 途中に隠居丸の虎口が設けられている。


【裏門跡】
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 城の東南、搦手に設けられていた裏門跡。三ノ丸と二ノ丸との間に建てられていた門で、 表門などと同様に瓦葺二階建ての櫓門だったが、正保3年(1646)の大風で二階部分が破損し、 茅葺き平屋建てになった。 二ノ丸と隠居丸の高石垣に囲まれ、搦手とは思えない程の立派な造りになっている。 この辺りの石垣には後の改修によるものと思われる打込み接が見られる。


【三の丸 御城番屋敷】
image-1 image-1  城域の南西、搦手門を出たところに位置する御城番屋敷。文久3年(1863)に松坂城警護のために 派遣された紀州藩士20名とその家族が移り住んだ長屋で、現在も子孫が維持管理をして居住している。 組長屋は全国的にも珍しく重要文化財に指定されている。 当時、この辺りは三の丸にあたり、周囲に幅15m〜31m、総延長2km程の水堀があったが、明治期に埋められた。

【三の丸 土蔵】
image-1  御城番屋敷の北西角に建てられている土蔵は、当時隠居丸に建てられていた米蔵を移築したもの。 江戸時代末期の築造で、松坂城関係の建物としては唯一現存する建物として三重県の指定有形文化財に 指定されている。