【本丸跡】 |
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築城の名手、藤堂虎の築城した城の完成形らしく、本丸の周囲には多門櫓を巡らせ、 東西の虎口には内枡形門と角馬出しを設ける堅固な造りだった。現在、本丸内は公園となっており、 周囲の石垣と水堀の一部が残っている。 |
【藤堂虎像】 |
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本丸内に建てられた藤堂虎像。外様ながら家康には信頼されていたようで、 関ヶ原の戦いの後、今治で20万石の大名となり、慶長13年に伊勢・伊賀に 22万石で移封され、大坂の陣の後に32万石まで加増され、藤堂家は江戸まで続いた。 築城の名手としても有名で、数多くの築城に携わっている。 |
【三重櫓】 |
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本丸東側の石垣上に建てられた模擬三重櫓。城のシンボル的な建物になっているが、 元々は東虎口を守る多門櫓が建てられていた場所で、ここに三重櫓はなかった。 何故ここに建ててしまったのだろう? どうせなら、当時実際に三重櫓が建てられていた 丑寅櫓跡に建てれば良かったのに・・・ 出来れば破風とかもナシで。 |
【東側虎口】 |
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本丸東側には外門の東黒門と内門の東鉄門からなる枡形門が設けられていた。 東鉄門は鉄板張の門扉をもつ櫓門で、周囲の石垣上には多門櫓が建てられ虎口を厳重に守っていた。 現在は枡形の跡形も無く、北側の石垣上に三重の模擬櫓が建てられている。 |
【丑寅櫓跡】 |
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本丸の東北隅に位置する櫓。五間四方の層塔型の三重櫓で、同型同大の戌亥櫓と共に 天守に相当する城内最大の櫓だった。壁面の長押形や窓などは、高い格式を備えていた。 |
【戌亥櫓跡】 |
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本丸の西北隅に位置する櫓。五間四方の層塔型の三重櫓で、同型同大の戌亥櫓と共に 天守に相当する城内最大の櫓だった。 |
【本丸北多門櫓】 |
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本丸北側の石垣上には、東側の丑寅櫓と西側の戌亥櫓とを繋ぐ、幅3間、長さは 約47間半にも及ぶ長大な多門櫓が建てられていた。内部は3間ごとの16室に区画され、 倉庫として使われていた。 |
【北側水堀】 |
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本丸北側に残る水堀。当時は何本かの川を取り入れ、現在よりもかなり幅の広いものだったが、 明治期に埋められてしまったらしい。 |
【天守台】 |
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本丸南西隅に残る天守台の石垣。織田信包により五層の天守が建てられていたらしく、 かなり立派な石垣で、すぐ横には小天守の石垣も残っている。 藤堂虎の頃には再建されなかったので、この辺りの石垣は藤堂虎以前のものと思われる。 大天守の石垣には階段や穴蔵の入口が見られる。 |
【南側埋門跡】 |
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本丸の南側、天守台の東側の石垣に設けられた埋門。この埋門の外側にも当時は犬走りがあり、 埋門から犬走りをつたって逃げる事が出来るようになっていたらしい。 |
【本丸南側】 |
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本丸南側の堀は埋め立てられ、現在公園になっている。当時は南の石垣上にも多門櫓が建てられていた。 |
【月見櫓跡】 |
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本丸南東隅に残る月見櫓の櫓台。二重櫓が建てられていたと思われる。 |
【西側虎口】 |
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本丸西側には、外側の西黒門と内門の西鉄門からなる枡形門が設けられていた。 東門同様、西鉄門の門扉は鉄板張りの厳重な構造で、門の南側には二重の伊賀櫓、 その周囲には多門櫓が巡らされ、虎口を厳重に守っていた。 また、門と西の丸とを繋ぐ土橋の両側には土塀が設けられ、二の丸側の桜門と枡形を 構成しており、二重の枡形のような構造になっていた。 |
【西の丸】 |
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本丸西側の馬出しにあたる西の丸。現在は土橋の南部分が埋め立てられ全体が日本庭園となっており、 藩校の入徳門も移築されている。周囲の石垣と水堀が良く残っており、犬走りも見られるが、 これは当時のものでは無いらしい。 |
【西の丸 入徳門】 |
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文政3年(1820)に第十代藩主の藤堂兌により創設された藩校、有造館の正門として造られた。 明治4年に有造館が廃校となった後は、小学校や図書館などの門として使われ、その後 昭和46年に現在の西の丸に移築された。 |
【西の丸 南側虎口】 |
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西の丸の南側に設けられた虎口。右に折れる枡形門で、当時は石垣上に櫓門が建てられ、 東側には玉櫓が建てられていた。現在でも枡形の石垣が残っている。 |
【西の丸南側】 |
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本丸と西の丸との間は当時は土橋で接続されていたが、現在は間の部分の堀が埋められている。 当時の石垣と埋め立てた際の石垣の継ぎ目部分の痕跡が見られる。 |
【東の丸跡】 |
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本丸東側の馬出しにあたる東の丸跡。現在は公園や商工会議所になっており、跡形も無くなっている。 |