川崎要害
慶長13年(1608)に砂金11代の砂金常房によって築かれ、元禄15年(1702)まで砂金氏の城として機能した。砂金氏没後は伊達氏の城となり、最上領との最前線に位置する事から重要視され、伊達一門(川崎伊達氏)が入城した。舌状台地の先端に築かれた連郭式の平山城で、仙台藩21要害の一つに数えられているが、それ程規模は大きくなく、割と簡素な造り。戦がなくなった江戸期に入ってからの築城と言う事だろうが、かえって古い時代の城に見えてしまう。現在、本丸跡は城山公園となっており、本丸から見える周辺の町割りはほぽ当時のまま残っているらしい。
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本丸跡
【城山公園】 |
舌状台地の先端に位置する本丸跡。現在は城山公園となっている。周囲に土塁などは見られないものの、切岸は比較的鋭く、それなりの要害だったことが分かる。流石は仙台藩21要害の一つに数えられるだけのことはある とは言ったものの、21って結構沢山あるな。
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【本丸腰曲輪】 |
本丸の北側は他に比べるとやや傾斜が緩く、一見守りが弱そうに見えるが、この方面にはしっかりと腰曲輪が設けられている。
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【本丸跡東側】 |
城山公園の東側、二の丸跡に建てられている小学校との間には高さ3m程の高低差が見られる。学校が建てられたりしているので、改変はあるだろうが、場所的に考えて空堀の名残と見て良いだろう。
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【搦手】 |
道路を挟んだ北側には、北側山麓へと続く搦手虎口跡と見られる遺構が残っている。公園化と学校建設により、遺構はほぼ残っていないと思っていただけに嬉しい誤算。このすぐ横までアスファルトで固められているだけに、ここだけ良く残っているなという感じ。搦手を守る曲輪のような地形も残っている。
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二の丸跡
【二の丸跡】 |
本丸の西側に位置する広大な二の丸跡。東側半分が小学校、西側半分が農地となっており、農地の周囲には一部に土塁も残っている。
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【二の丸空堀】 |
二の丸の東側には空堀の跡が残っており、現在は農道となっている。また、この空堀から二の丸に至る虎口跡もみられる。ほとんど遺構は残っていないと思っていたが、実際に来てみると、色々なところに痕跡が残っている事を再認識させられる。
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