Japanese Castle

青葉城

青葉城について

 仙台城は初め千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代の末から室町時代の中頃にかけて島津氏が 陸奥守として居城したと伝えられているが明らかでない。 その後、仙台藩祖伊達政宗公は天正19年(西暦1591年)以来58万石を領して玉造郡岩出山城に居たが、 慶長5年(西暦1600年)関ヶ原の戦いに徳川家康を助け、石田三成と呼応した会津の上杉景勝を牽制した功により 新たに刈田郡を増加、仙台60万石(後ち近江、常陸で2万石増加)にとなった。 この直後に政宗は断崖と川に囲まれた天然の要害青葉山に築城を開始し地名は千代から仙台に改められた。 1611年(慶長16年)仙台城を訪れたイスパニアの使節セバスチャン・ビスカイノはその 「金銀島探検報告書」の中で、「日本で最も優れ、最も堅固な城の一つである」と賞賛している。 二代忠宗は1638年(寛永15年)二の丸を造営、その後も三ノ丸等整備拡充と被災を繰り返し、 62万石の雄藩にふさわしい城郭を完成させた。かくして仙台城は藩祖以来伊達氏、13代270年にわたり 1度も戦火を被らなかった平和な城として郭内の殿舎、楼櫓を完全に保存して明治時代に至ったが、 明治維新後殆どの建物が取り払われ、昭和20年の仙台空襲で残っていた大手門も脇櫓と共に焼失した。
【大手門跡】
 全国随一の規模を誇る桃山様式の城門で、二層の隅櫓とともに国宝に指定されていたが、昭和20年7月9日の 仙台空襲により焼失した。現在の大手門は昭和39年に復元されたもので、仙台城では数少ない復元建造物。 素木造二階建、入母屋造本亙葺で一階は正面七間、背面五間、二階は十間の規模で桁行は六十五尺(約20m)あった。
【中門跡】
 大手門から本丸に向かうと最初に見える門跡。石垣が残っており、喰違いになっているのが分かる。
【沢の門跡】
 本丸と大手門、三ノ丸の間の斜面には自然地形を利用して曲輪が設けられており、 三ノ丸と本丸の間には沢の曲輪、その西側には中の曲輪と呼ばれていた。これら2つの曲輪を 連絡する部分に設けられた門。この辺りの曲輪や門は複雑に配置されており、中世から近世への 過渡期に築かれた事が分かる。
【本丸詰ノ門跡】
 本丸大手にあたる詰ノ門跡。正保の城絵図によると二階建、瓦葺で棟の両端に鯱がのっており、 門の左右(東西)には三重の脇櫓が築かれていた。左右の石垣の距離は19.5m(65尺)で、大手門と同じ幅で 意匠面でも大手門に極めて似ていた。正保3年(1646年)の地震で倒壊した。
【本丸跡】
 本丸は東西約243m南北約265m程あり、他の城郭の本丸と比較してもかなり広大。東側は広瀬川、南側は竜ノ口渓谷、 西は青葉山(御裏林)で守られた要害になっている。関ヶ原後の慶長6年(1601)に築城が開始され、慶長15年(1610)に 大広間が完成しほぼ全容が整った。天守はつくられなかったが、大広間を含む広大な御殿、5ヶ所の櫓、大手門に匹敵する 規模を有する詰の門などのほか、御懸造りと呼ばれる崖に突き出た数寄屋風書院、能舞台などすぐれた 建築群が偉容を誇っていた。 しかし二代藩主忠宗によるニノ丸造営後は次第に実用性を失い、明治維新後すべての建物が取り払われた。 建物は残っていないが、北側には見事な石垣が残っている。
【本丸埋門跡】
 本丸の南側に位置する埋門跡。2回折れ曲がる厳重な造りとなっており、かつては石垣も残っていたらしい。 正保の城絵図によると、当時は平屋建・瓦葺の門が建っていた。
【二の丸跡】
 寛永15年(1638年)二代目藩主伊達忠宗公により造営され、その後幕末に至る二百数十年間政治の中心地、 藩主の日常生活の場として機能していた。二の丸には、小広間をはじめとする二の丸御殿、 勘定所、 郡方役所などが建てられており、当初、北西の地には、伊達政宗公の長女五郎八姫の住む 西屋敷もあった。 しかし明治15年(1882年)の火災によってほとんどの建物が焼失し、難を逃れた大手門、 脇櫓、寅ノ門も、 昭和20年(1945年)の戦災で焼失した。現在は、東北大学の文系キャンパスとなっているが、周囲には堀の跡が残っている。
【三の丸】
 現在博物館となっている場所が当時の三の丸で、その周囲は堀と土塁で堅固に囲まれていた。 現在の「五色沼」「長沼」は当時の堀跡。長沼は東側の堀にあたり、正保の城絵図では南北の長さ約252m、 深さが約4,5mあった。
【三ノ丸子ノ門跡】
 現在、仙台市博物館となっている三ノ丸の敷地内の出入口となっている場所には、子ノ門と呼ばれる 木造二階建、瓦葺の門が建っていた。正保の城下絵図では「子ノ方門」と記されている。 現在も石垣が左右に残っているが、これは昭和に入り修理されたものらしい。
【三ノ丸巽門跡】
 藩政時代初期の絵図には「蔵屋敷」と記されている三ノ丸には、北側の子ノ門と南東側の巽門のニヶ所の門があった。 巽門は大手門や脇櫓とともに戦災まで残っていた数少ない建造物のひとつで、昭和59年に実施された 発掘調査で建物の礎石14個や雨落溝などが検出され、翌年その成果をもとに門の跡の復元整備が行なわれた。
【清水門跡】
 三ノ丸と沢の曲輪の境目にあたる門で、正保年間(1644~47)の城絵図(下図)では入母屋造屋根、 二階建ての楼門となっているが、創建年代や変遷は不明。清水門の名は仙台藩の御用酒づくりに 利用された清水が右脇にあることにちなんでいるらしい。
【醸造所と井戸】
 三ノ丸の南側、清水門近くに残る醸造所と井戸跡。慶長13年(1608)に大和国から伊達政宗が招いた櫃森又右衛門が 酒蔵と屋敷を与えられ酒造りを行ったと伝えられ、江戸時代を通じて酒蔵が置かれていた。 又右衛門は仙台城内詰の御酒御用を命じられ、苗字帯刀も許されていた。酒造りには、この付近にある「清水門」 の名前の由来となっている湧き水が用水として用いられた。寛永5年(1628)に政宗が若林城(現在の宮城刑務所)に移ると、 又右衛門もそれに従い若林で酒造を続けた。櫃森家は、初代又右衛門から幕末・明治期の12代孝蔵にいたるまで、 江戸時代を通じて仙台藩の御用酒屋をつとめ、ぶどう酒、みかん酒、びわ酒、みりん酒なども造ったと伝えられている。
【広瀬川】
 外堀の役割をしている広瀬川には、川沿いに今も石垣が残っており、川底には柱の跡とみられる大穴も見られる。
【片倉小十郎屋敷跡】
 三の丸の堀の東側には、延宝5年(1677年)から幕末まで、伊違家の重臣片倉小十郎の屋敷があった。 片倉小十郎は、慶長7年(1602年)より白石城主として伊達領南方の防備を担っており、知行は1万八千石と 伊達家における有数の大身侍だった。ちなみに、白石城は江戸時代の原則だった「一国一城制」の例外として 公式に「城」と認められたものだった。