多賀城跡



【多賀城跡】
image-1  奈良時代前半、神亀元年(724)に東北全域を統治する役割で置かれた陸奥国府の跡。 東北地方の一大中心地として平安時代以降も続いた。城域は約1km四方に及び、その周囲は 築地塀で囲まれていた。中央には儀式などを行う政庁が置かれ、多数の役所も建てられていた。 奈良の平城京、福岡の太宰府と共に日本三大史跡と言われている。


【政庁】
 多賀城の中央に位置し、陸奥国府の重要な政務や儀式が執り行われていたところ。 約100m四方の周囲は築地塀で囲まれ、その中心に正殿、東西に脇殿が配されていた。
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【政庁正殿跡】
 政庁で中心的な建物。礎石式の四面廂付建物で、南側には石敷広場があった。 現在は基壇のみが復元されている。
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【石敷広場跡】
 正殿正面の南側の石敷広場の跡。細かい石が敷き詰められている。
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【政庁後殿跡】
image-1 image-1  正殿の北側に位置する後殿跡。基壇のみが復元されている。

【政庁南門跡】
image-1 image-1  政庁の南正面に建てられていた門跡。礎石式の門で、東西には翼廊が取り付けられていた。 現在は基壇のみが復元されている。

【政庁東殿、西殿跡】
image-1 image-1  東門と西門の位置にはそれぞれ殿舎が建てられ、その南北には築地塀が取り付いていた。 現在は基壇のみが復元されている。

【政庁脇殿跡】
 正殿の東西に配置されていた脇殿。基壇のみが復元されている。
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【政庁-南門間通路跡】
 多賀城の中枢部である政庁から外郭南門へ南北に通じる道路で、多賀城の中心的な道路だった。 発掘調査の結果、幅が12mから23mに拡幅されていた事が分かった。政庁南側斜面には、 自然石を並べた階段が設けられ、排水用の暗渠も設置されていた。現在は拡張される前の 8世紀頃の状態に復元整備されている。
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【南門跡】
 外郭南辺のほぼ中央に位置する門で、政庁正面からの道路が延びた多賀城の正面に位置し、 他の外郭門に比べてひときわ立派だったと考えられている。この門の両側には築地塀が 接続されていた。
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【多賀城碑】
image-1 image-1  南門の近くに建つ多賀城碑。8世紀に建てられた多賀城修造記念碑と思われ、 多賀城が造られた年や平城京の距離など、古代東北の解明にとって重要な記載がある。 日本三大古碑にも数えられ、重要文化財に指定されている。松尾芭蕉などの文人が 訪れている事でも有名。


【六月坂地区】
 政庁から北へ300mの位置にあり、行政的な仕事をする場所だったと考えられている。 平安時代には、桁行7間×梁間4間の四面廂付建物や、複数の掘っ立て柱建物が並んでいた。 これらのすぐ北側には外郭東門から西門間の道路も通っており、交通の要衝でもあった。
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【六月坂地区 道路跡】
 建物跡の北側に残る道路跡。当時は外郭東門から西門まで通じていた。
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【六月坂地区 多賀神社】
image-1 image-1  六月坂地区に建つ多賀神社。似たような名前の神社が、ここの他にも幾つかある。


【平安時代の石敷道路】
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image-1  東門と西門を結ぶ幅約16mの道路の跡。現在も六月坂地区から東門にかけてその名残が 残っている。平安時代には、東門付近の道路は小石や瓦が敷き詰められていた。

【竪穴】
image-1  石葺き道路の周囲からは多くの建物跡の竪穴が見つかっている。


【大畑地区】
image-1 image-1  多賀城内で最も広い役所群があった場所。現在は何もない広大な広場になっている。

【北門跡】
 大畑地区の役所の北側に位置する門で、門の両側には丸太材を立て並べた 材木塀が作られていた。現在は、門の柱や塀の一部が復元されている。
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【奈良時代の外郭東門跡】
 外郭の東辺北寄りに位置する門で、多賀城と国府の津(塩釜港)を結ぶ最も賑わった門だった。 奈良時代にはこの場所に門が建てられたが、平安時代になると約80m西に移されるなど、 何度か移り変わっている。現在は推定復元された柱が60cmの高さまで表示されている。
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【平安時代の外郭東門跡】
 平安時代の東門は、正面9.4m、奥行5.5mの瓦葺きの八脚門だった。はじめは掘立柱で建てられ、 後に礎石で作り直された。門の両側には櫓が建ち、築地塀によって囲まれていた。
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【平安時代の外郭東門櫓台跡】
 東門の前面には、瓦葺きの櫓台が南北対象に建てられていた。現在はその櫓台が復元されている。
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【北東隅築地塀跡】
image-1 image-1  外郭東門の北には、外郭の北東隅の築地塀の跡が確認できる。


【東側築地塀跡】
image-1 image-1  奈良時代に建てられた外郭東門は宝亀11年(780)年の火災で焼失し、平安時代に西側に 新たな東門と築地塀が建てられた。現在はそれら築地塀の土塁の一部が復元されている。

【柱跡】
image-1  8世紀中頃に建てられた掘立柱式の建物跡。南北45m、東西12mあり、多賀城で最も大きく、 東西には廂が付けられていた。柱の一部が復元されている。


【佐貫地区】
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image-1  政庁の東に位置し、奈良時代、平安時代を通して陸奥国府の主要な役所として使われており、 主屋を中心にコの字型に多数の建物が配置されていた。また、中世には豪族の居館として、 江戸期には塩竈神社の神官の屋敷としても使われた。

【佐貫地区 土塁】
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image-1  多賀城跡は、城と言うよりも都市遺跡なので、いわゆる城跡の遺構とはだいぶ違うが、 佐貫地区は豪族の居館として使われていた時期もあったためか、土塁や空堀のような 中世城跡のようななじみ深い遺構が残っている地域。

【佐貫地区 北側空堀】
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image-1  北側の空堀の一部は発掘調査の結果に基づき、同じ位置で復元展示されている。


【外郭東南隅 あやめ園】
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image-1  城域の南東隅は現在あやめ園となっており、250種200万本のあやめ、花菖蒲が植えられている。 かつてはこの辺りが低湿地だった事が分かる。あやめ園の一角には築地塀跡もある。


【南辺築地塀跡】
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image-1  外郭南側の築地塀跡。発掘調査の結果、高さ4.5m程の塀だったと推定されている。 この辺りは低湿地だったため、地盤沈下防止のための基礎盛土をした跡や、排水木樋 なども見つかっている。現在は発掘調査前の状態に埋め戻してある。


【館前遺跡】
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image-1  多賀城の南東から200m、政庁と廃寺との中間に位置し、9世紀前半のものと思われる 6棟の建物跡が見つかっている。それら中心の建物は、四面廂が付く格式の高いもので、 規模も政庁の正殿に匹敵する事から、国史の館跡と考えられている。


【廃寺】
image-1 image-1  多賀城の創建と同時期の奈良時代の前半に付属の官寺として建立されたもので、 創建当時から本格的な古代寺院だったと思われる。敷地からは、塔、金堂、講堂、 中門、鐘楼などの建物が建てられていた事が分かっており、現在は国の特別史跡に 指定され、公園となっている。

【廃寺 講堂跡】
 廃寺の主要な建物の一つで、凝灰岩の基壇の上に柱の礎石を置いて造られている。 この講堂の両脇からの築地塀で囲われたエリアに塔と金堂が建つ伽藍配置になっている。
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【廃寺 築地塀跡】
 北の講堂と南の中門との間を囲む築地塀の跡、低い土塁で当時の塀の跡が分かるようになっている。
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【廃寺 塔跡】
 伽藍の東側に配置された塔の跡。当時はこの土壇の上に三重の塔が建てられていたらしい。
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【廃寺 金堂跡】
 伽藍の西側に配置された金堂跡。講堂、塔と同じく、金堂も凝灰岩の基壇の上に 柱の礎石を置いて造られていた。
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【廃寺 中門跡】
image-1  伽藍の南側に位置する中門跡。この門の両側からは築地塀が続いていた。

【廃寺 僧房跡】
 講堂の北側に位置する僧坊跡。
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【多賀神社】
image-1 image-1  廃寺の北側にある多賀神社。境内には東日本大震災の復興祈念植樹が植えられていた。


【今野家住宅】
 東北歴史博物館には、江戸時代に村の責任者である肝入を代々つとめた今野家を移築し、 建築された当時の姿に復元展示されている。母屋は明和六年(1769)に建てられたもので、 建坪は72坪ある立派な屋敷。宮城県の有形文化財に指定されている。
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【駅前】
image-1  多賀城の駅前には、外郭南門を1/4で復元で復元したモニュメントが建てられている。