飯田城
飯田城について
信濃小笠原氏の庶流である坂西氏によって築かれたと言われている。戦国期には武田信玄がこの地に侵攻し、永禄5年(1562)に秋山信友が伊那郡代となり、遠江遠征の拠点として大改修した。天正10年(1582)の武田家滅亡後は織田配下、徳川配下の武将が目まぐるしく入れ替わる。一時天領を経て、元和3年(1617)に脇坂氏が入城し飯田藩が再興され、寛文12年(1672)に脇坂氏が龍野藩に移った後に堀氏が入り、そのまま明治維新まで続いた。現在、城跡は神社や博物館になっているが、一部に掘切などが残っている。
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【山伏丸】 |
舌状台地の先端に位置する山伏丸。現在は曲輪いっぱいにホテルが建てられており攻略は難しいが、周囲はそれなりの要害の雰囲気が残っている。
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【本丸跡】 |
現在は長姫神社や柳田国男館となっている本丸跡。約100m四方の曲輪内には当時は御殿などが建てられており、発掘調査で太い柱穴をもつ建物跡や大石を積んだ貯水池跡が見つかっている。一部には土塁も残っているらしいが、確認できなかった。
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【本丸~二の丸 堀切】 |
本丸と二の丸との間の掘切。街中と言う事もあり市街地化が進み、堀の大部分は埋められてしまっているが、美術博物館と柳田国男館の間の部分だけは良く残っている。かなり規模の大きい掘切だった事が分かる一番の見所。現在残っているのは南側部分のみだが、当時は北側まで堀が続いており、中央に土橋がかけられていた。
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【二の丸跡】 |
本丸と堀切を挟んで西側に位置する二の丸跡。当時は中央に大通りが通り、その両側には飯田藩の重臣の屋敷が並んでいた。現在は美術博物館の敷地となっているが、発掘調査で見つかった遺構が再現されている。訪れた時は既に美術博物館は閉まっていたが、恐竜の骨とかが外からも見えて、ここはここで楽しそう。
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【二の丸】 |
二の丸の北側には車道が通されているが、かなりの高低差があった事が分かる。
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【二の丸大通り跡】 |
二の丸を東西に貫いていた幅5m程の大通りの跡が砂利で再現されているが、案内板を見ると、本来の位置とは若干違うらしい・・・ 本来の位置には再現できなかったのかな? 当時は大通りの両側に白壁の土塀が続き、各所に飯田藩重臣の屋敷の門があった。
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【二の丸水路跡】 |
こちらも美術博物館の敷地内に再現されている水路跡。風越山の山麓から城突端の山伏丸の池まで引かれていたらしい。
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【二の丸井戸】 |
二の丸からは5箇所の井戸が発見されている。現在は埋められているが、内側には石積みが築かれており、なかなかグレードの高い井戸だった。
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【安富桜】 |
天然記念物となっている二の丸の立派なエドヒガン。飯田城主堀氏の家老、安富氏の館近くにあったため安富桜と呼ばれている。
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【二の丸御門跡】 |
二の丸の西側、出丸から土橋を渡った大手にあたるこの辺りには、当時二の丸御門(八間門)が建てられていたらしいが、発掘調査の結果では、門の位置は確定できなかったらしい。この門は城下に移築されて現存している。
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【八間門】 |
こちらが城下の木下家に移築され現存する八間門。明治4年(1871)の廃城時に払い下げられ移築された。2階建て3間1戸の規模の大きな櫓門で、両側に4間の長屋が接続している。これらも城内の建物を移築した物と伝えられている。飯田城に建てられていた時は枡形門だったらしい。
飯田市の有形文化財に登録されているが、普通に人が住んでいる民家の門というのが凄い。
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【二の丸~出丸】 |
二の丸と出丸との間の掘切跡。当時から堀底道として使われており、この堀底道の中程には水の手御門が設けられていた。
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【桜丸御門】 |
宝暦4年(1754)に建てられた桜丸御門。紅殻で赤く塗られているため赤門とも呼ばれている。鬼瓦には堀氏の家紋である『向梅』が使われている。明治期以降も役所の正門として使われ、現在も城内に残る唯一の建築物となっている。しかし、現在はポツンと門のみが残っている状態で、横からも素通りできてしまう状態。ちょっと寂しい感じ。
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