北熊井城
築城年代は定かではないが、小笠原氏の南方の拠点として築かれたと考えられ、戦国期には重臣の村井氏が入るなど、
重要視されていた。天文14年(1545)に武田信玄の侵攻の際に自落したとされるが、この辺りの記録は高白斎記による
もののみなので、信憑性には怪しい部分がある。その後は武田氏の信濃侵攻の拠点として拡張整備され、現在見られる遺構はこの頃のものと思われる。小笠原氏系の山城が多いこの地域としては珍しい広大な平山城で、大規模な空堀や重厚な土塁もしっかりと残っている。
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本城
【本城南側空堀】 |
本城の南側、馬出跡っぽい場所に駐車場が完備されており、案内板やパンフレットもありそうな雰囲気で非常に訪れやすい城。『歓迎 しおりあります』の手書きの案内もうれしく、地元の方々に感謝。ただ、箱の中にしおりはありませんでした。
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【本城】 |
主郭にあたる城内最大の郭。南北70m、東西80m程あり、東側には土塁が築かれている。土塁は内側からでもそれなりの高さがありそうに見えるが、草も生い茂っていてどこまでが土塁なのか判然としなかった。
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【本城南側空堀】 |
本城南側の空堀。空堀の外側に土塁が築かれ、二重堀になっている。また、西側の空堀とは食い違い状にずらしてあり、見通しがきかないようになっている。現地解説版によると『鈎の手』となっていた。
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【本城~西一の郭】 |
本城と西一の郭との間を隔てる巨大空堀。場内最大の規模で深さ約17m、幅は底部でも5m程あり、現在堀底は車道となっている。
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西側エリア
【西一の郭】 |
本城と上記の堀切を隔てた西側に位置する西一の郭。本城に次ぐ規模の郭で、東側の一部に土塁が残っている。現在は堀切の部分から登城路が設けられているが、当時の登城路かどうかはよくわからない。
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【西一の郭~西二の郭】 |
西一の郭と西二の郭との間の堀切。こちらはだいぶ埋まってしまっている感はあるものの、しっかりと痕跡は残っている。
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【西郭南側空堀】 |
西一の郭、西二の郭の南側は直線状の空堀が掘られている。この辺りも外側に土塁が築かれた二重掘となっている。
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【西郭南側虎口】 |
西郭の南側の土塁の一部には虎口跡と見られる開口部が残っている。
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【西三の郭】 |
堀底道を西に進むと西三の郭に至る。西二の郭からは一段下がった郭だが、間に空堀は見られない。現地の標柱では馬場となっていた。
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東側エリア
【東門跡と金池跡】 |
今度は東側エリアへ。本城の南西隅には土塁の切り欠きがあり、ここには東門の跡らしい。しかし、この門の内側の本城東側空堀辺りは金池と呼ばれており、当時は湧水池だったらしい。実際には水堀のようになっていたと思われるが、門を抜けると水堀って一体この部分はどういう作りだったのだろう?。現在は水が涸れているため、普通の堀底道として歩ける。
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【東一の郭】 |
本城に隣接する東一の郭。郭内は畑地として利用されている。この辺りも堀がしっかり残っている。
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【東一の郭~東二の郭】 |
東一の郭と東二の郭との間の空堀。現在は畑地に至る通路として利用されており、だいぶ改変されているように見えるが、ここも堀の痕跡ははっきり分かる。この先にも郭が続いているようだが、時間的に見て回れなかったのが残念。正直、ここまで規模の大きな城跡だとは思っていなかった。
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【城域南側】 |
城域の南側も畑地になっているが、郭や空堀のような地形が見られる。当時はこの辺りも城域の一部だったと思われる。
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