駒場城
駒場城について
現在も中央道を見下ろす交通の要衝に築かれていた山城。応永年間に林氏によって築かれ、信玄の狼煙台として使われていたなど言われているが、定かなことは分かっていない。文献上の記録からは、天正10年(1582)の織田信長による甲斐侵攻の際の拠点となっていた事が分かっている。元亀4年(1573)に上洛の途についた信玄が、病で信濃へと撤退する途中に死去した場所として知られており、山麓には信玄を火葬した寺も残っている。現在は阿智公園となっており、巨大な掘切などが状態良く残っている。これらの遺構を見る限り、とても狼煙台程度の規模ではないので、どこかの時期でかなり改変されているものと思われる。
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【出丸東側】 |
登城路は一応車も通れるらしいが、かなり狭そうだったので車を山麓に駐めて徒歩で登城。実際歩いて登って正解。引き返せそうな場所もなく、対向車でも来たら致命的。来なくてもかなり怖い。などと思いながら10分程で出丸の東側の掘切が見えてくる。規模はさほど大きくないが明瞭に残っている。
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【出丸】 |
城域東端に位置する出丸、頂部には祠が建てられており、一部には発掘中なのか、ブルーシートがかけられていた。
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【出丸看板と出丸からの眺め】 |
出丸の北側には『こまんば城址』の看板が立てられている。この看板は中央道からもよく見える場所で、逆にここからの眺望もかなりきく。交通の要衝を見下ろす場所で、城を築くのに最適なだった事が実感出来る。
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【出丸西側】 |
出丸の西側、主郭部との間の掘切部分が現在は一応駐車場となっているが、ここまで車で来ない方が良いだろう。
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【出丸~主郭】 |
出丸から主郭までの尾根上には遊歩道が通されており、そのために結構遺構が破壊されている様子。それでも、遊歩道の両側に腰曲輪のような地形が見られる。
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【主郭】 |
尾根のピークに設けられた主郭。山城の曲輪としてはかなり広く、長辺で40m~50m程ありそう。公園と言うだけあって、遊具も置いてあったがここまで遊びに来る子供がいるのだろうか?
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【主郭~2郭の掘切】 |
この城一番の見所でもある、主郭の西側に掘られている巨大掘切。深さ6m~7mに及ぶ規模の大きな掘切で、竪堀となって山麓まで続いている。
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【主郭~2郭の竪堀】 |
上記の竪堀を山麓の方まで辿っていくと、ほどなくして車道が見えてくる。GPSを確認すると、ちょうど車を置いたスタート地点だった。出丸の方からぐるっと回ったが、直上すると一瞬だった事に気付く。確かに下から掘切っぽい地形が見えていたが、これが主郭と2郭の間の掘切に繋がっていたとは・・・
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【2郭】 |
また山頂部まで戻る。掘切を隔てた主郭の西側に位置する2郭。主郭に比べるとかなり狭く、削平も微妙。一部に井戸跡と思われる窪みもあったが、こんな山頂にないだろうな?
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【2郭~3郭の掘切】 |
2郭と3郭との間の掘切。こちらも規模の大きい掘切が残っている。箱堀のような形状になっているが、これは当時からか、埋まってしまったものかは良く分からない。
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【3郭~4郭】 |
先程の西側に掘られた3郭と4郭との間の掘切。規模は徐々に小さくなりながらも、尾根上の掘切が連続している。
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【4郭~5郭】 |
更に西側に位置する4郭と5郭との間の掘切。この先にもまだあるのかもしれないが、明確に確認できる掘切はこの辺りまで。パターンとしては、西端に尾根と城域とを分断する大堀切があっても良さそうな気がするので探してみたが、見当たらなかった。
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【竪堀】 |
南側の斜面には多くの竪堀が残っている。ここまでしっかりとして竪堀が見られる場所もなかなかない。狼煙台などと書かれていたので、正直あまり期待はしていなかったが、見応え十分だな。
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【長岳寺】 |
山麓の長岳寺。武田信玄が三河からの帰路駒場城近辺で病死し、密かに担ぎ込まれて火葬されたとされている寺で、境内には信玄の供養塔も建てられている。また、信玄のみならず、馬場美濃の供養塔も横に建てられていたが何故?確か馬場美濃は長篠で戦死しているはず。
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