【北側 堀跡】 |
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江戸時代後半に行われた千曲川の改修により、造られた百間堀・新堀の跡。現在西側の百間堀は埋め立てられており、とても 百間堀と呼ばれた頃の面影はない。また、これらの堀際には『不崩の土手』と呼ばれる土塁が築かれていたらしい。 |
【北二ノ丸】 |
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北二ノ丸もかなり広大だが、こちらも周囲を低い土塁が囲む以外は、井戸くらいしか残っていない。 |
【北二ノ丸 井戸】 |
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北二ノ丸に残る井戸。内側を石で囲んだ立派なもの。 |
【埋門】 |
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本丸北西戌亥櫓台からつながる土塁に残る埋門。幕末の絵図に描かれてたようなので、この辺りにあったのは 確かだろうが、恐らくこの門自体は復元。 |
【北側内堀】 |
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東二ノ丸と北二ノ丸を隔てる堀と土塁。完全に分かれた曲輪だったらしい。 |
【北不明門】 |
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搦手にあたる本丸北側と二ノ丸の間の北不明門。太鼓門と同様に櫓門と表門(桝形門)から成っている。 18世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから、『水之手御門』と呼ば れることもあった。絵図史料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して復元された。櫓門は石垣に渡らずに 独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門。 |
【本丸】 |
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ほぼ正方形の本丸は、大小の石を用いた特徴的な石垣で周囲を囲まれている。 |
【本丸御殿跡】 |
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本丸内には、江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿があった。調査では、建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など、 享保2(1717)年の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかっている。しかし度重なる水害の影響により、明和7(1770)年に城の南西に 位置した花の丸に御殿を移した。 |
【戌亥櫓】 |
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本丸の北東隅に残る戌亥櫓跡の櫓台。実質的には天守に相当していたと考えられる。この櫓台の石垣は松代城内でも古い近世 初頭のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さを物語っている。 |
【内堀】 |
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復元されている本丸水堀。 |
【馬出し状土塁】 |
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二ノ丸南西に残る土塁。整備されており、どこまで当時のものかは微妙だが、どのような遺構だったのか いまいちよく分からない。丸馬出のようにも見えるが、位置もおかしく、行き止まりの曲輪になっている。 |
【二の丸南門】 |
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二ノ丸南側の門。太鼓門の南に位置する大手にあたる門。調査成果から、門が土塁の土留をしていたと考えられる。現在は石垣と 門の一部が表示されている。 |
【東不明門】 |
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本丸と東二ノ丸をつなぐ門跡と橋。こちらの門は復元されていない。 |
【二ノ丸石場門】 |
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二ノ丸東側の門。実物の石場門礎石は地中に保護されているが、門の位置をレプリカの礎石で示されている。土塁の裾部分に 並ぶ平石は土塁の土留めや水切りのためのものと思われている。かつてはこの外側には丸馬出があったらしい。 |
【東二ノ丸】 |
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かなりの広さの東二ノ丸。東側にかなり規模の大きい土塁が残っているが、史跡指定を受けた頃には北西側土塁の一部以外は 殆ど削平されていたらしいので、おそらく復元されたものだろう。 |
【東側外堀跡】 |
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二ノ丸東側の堀跡。かつてはここにも水堀があったらしいが、今はかなり寂しい川(どぶ?)が流れているだけ。 |
【南側外堀跡】 |
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長野電鉄の線路沿いに残る外堀跡。現在は、砂利で堀跡が型取られている。 |
【白井家表門】 |
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白井家は松代藩の中級武士。表門は三間一戸門形式の長屋門で、門部は太い槻の角材でつくられている。間口が20m余りの 長大な門で、背面に3つの居室部を敷設しており、門に住宅が続いている珍しい例。松代藩中級武士の代表的な門として当時の 面影を残している。 |
【藩校】 |
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真田幸教により案線2年(1855)に開校された。剣術、柔術、弓術、槍術、文家所などほぼ当時のままの面影を残している。 |
【真田家】 |
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文久2年(1862)真田幸教の義母のために築造された。松代藩に唯一現存する御殿建築。 |
【真田家御殿】 |
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【松代 武家屋敷】 |
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