松代城

 松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との『川中島の合戦』の際に、武田方の前進基地として築かれたのがその始まり と言われており、永禄3(1560)年頃に普請が完了したものと伝えられている。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの後、城主となった 森忠政の頃、二の丸・三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられている。元和8(1622)年に真田信之が上田より 移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。 松代城は、北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に向けて二の丸・三の丸・ 花の丸などの曲輪を構えていた。明治5(1872)年の廃城以降、建物は無くなったが、昭和56(1981)年に本丸を中心とした旧城郭域の 一部が新御殿とともに国史跡に指定されている。


【北側 堀跡】
 江戸時代後半に行われた千曲川の改修により、造られた百間堀・新堀の跡。現在西側の百間堀は埋め立てられており、とても 百間堀と呼ばれた頃の面影はない。また、これらの堀際には『不崩の土手』と呼ばれる土塁が築かれていたらしい。


【北二ノ丸】
 北二ノ丸もかなり広大だが、こちらも周囲を低い土塁が囲む以外は、井戸くらいしか残っていない。

【北二ノ丸 井戸】
 北二ノ丸に残る井戸。内側を石で囲んだ立派なもの。


【埋門】
 本丸北西戌亥櫓台からつながる土塁に残る埋門。幕末の絵図に描かれてたようなので、この辺りにあったのは 確かだろうが、恐らくこの門自体は復元。


【北側内堀】
 東二ノ丸と北二ノ丸を隔てる堀と土塁。完全に分かれた曲輪だったらしい。


【北不明門】
 搦手にあたる本丸北側と二ノ丸の間の北不明門。太鼓門と同様に櫓門と表門(桝形門)から成っている。 18世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから、『水之手御門』と呼ば れることもあった。絵図史料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して復元された。櫓門は石垣に渡らずに 独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門。


【本丸】
 ほぼ正方形の本丸は、大小の石を用いた特徴的な石垣で周囲を囲まれている。

【本丸御殿跡】
 本丸内には、江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿があった。調査では、建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など、 享保2(1717)年の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかっている。しかし度重なる水害の影響により、明和7(1770)年に城の南西に 位置した花の丸に御殿を移した。


【戌亥櫓】
 本丸の北東隅に残る戌亥櫓跡の櫓台。実質的には天守に相当していたと考えられる。この櫓台の石垣は松代城内でも古い近世 初頭のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さを物語っている。


【内堀】
 復元されている本丸水堀。


【太鼓門・前橋】
 本丸大手の太鼓門。二層の櫓門(太鼓門)と桝形門(橋詰門)の2つの門から成る枡形門。良好に残っていた 門礎石をそのまま利用し、絵図面などから、栩葺(板葺)で切妻屋根が復元された。 また、太鼓門の堀の中からは30本以上の折れた橋脚が発見され、橋脚の形状や打ち込まれた層位の違 いから、橋の架け直しが4回以上行われたことが分かった。これにより、災害の度に橋が崩落・破損したという当時の 史料記載を裏付けられた。発見した橋脚や江戸時代末期の絵図面をもとに復元された。 現在ではこれれは海津城のシンボルになっている。


【馬出し状土塁】
 二ノ丸南西に残る土塁。整備されており、どこまで当時のものかは微妙だが、どのような遺構だったのか いまいちよく分からない。丸馬出のようにも見えるが、位置もおかしく、行き止まりの曲輪になっている。


【二の丸南門】
 二ノ丸南側の門。太鼓門の南に位置する大手にあたる門。調査成果から、門が土塁の土留をしていたと考えられる。現在は石垣と 門の一部が表示されている。


【東不明門】
 本丸と東二ノ丸をつなぐ門跡と橋。こちらの門は復元されていない。


【二ノ丸石場門】
 二ノ丸東側の門。実物の石場門礎石は地中に保護されているが、門の位置をレプリカの礎石で示されている。土塁の裾部分に 並ぶ平石は土塁の土留めや水切りのためのものと思われている。かつてはこの外側には丸馬出があったらしい。


【東二ノ丸】
 かなりの広さの東二ノ丸。東側にかなり規模の大きい土塁が残っているが、史跡指定を受けた頃には北西側土塁の一部以外は 殆ど削平されていたらしいので、おそらく復元されたものだろう。


【東側外堀跡】
 二ノ丸東側の堀跡。かつてはここにも水堀があったらしいが、今はかなり寂しい川(どぶ?)が流れているだけ。


【南側外堀跡】
 長野電鉄の線路沿いに残る外堀跡。現在は、砂利で堀跡が型取られている。


【南側外堀跡】
 池田満寿夫美術館入口附近に残る外堀の跡。平成6年の調査で検出された松代城三の堀にあたる。遺構の位置が 深いため既存の切石で護岸を施した。三の堀は、この場所から南の新御殿(いまの真田邸)へ向い、西に曲って花の丸へと つながり、三の丸を取り囲んでいた。ここで発掘された大御門西石垣の根石の下には、石垣の沈下を防ぐための胴木とよばれる 基礎木材も出現したが、いまは湧水に没している。この一帯には三の堀のほかに、外堀や三日月堀、大御門などがあった。


【鐘楼】
 真田信之が元和八年(1622)十月、上田城から移り松代城主となって間もない寛永元年(1624)に設けたもので、ここに松代藩 足軽千人余の番割リをした割番役所を置いたので、割番所とも言った。この鐘は、昼夜の別なく一時(約二時間)ごとにつかせて 時刻を知らせ、また城下に出火の際に非常を知らせた。城下町のたび重なる大火で、享保二年(1717)・天明八年(1788)・ 寛政十二年(1800)の三回類焼にあい、初代・二代の鐘は焼損し、文化三年(1806)につくられた鐘は太平一洋戦争中に供出された。 平成三年旧鐘の寸去・重量を模して、新しい鐘がとりつけられた。寛永元年建築のものは、鍾楼と火の見が一棟建てだったが、 寛政十三年の火災のあと別棟とし、享和元年(1801)に再建されたものが現存する鐘楼で、北隣りにあつた火の見櫓は明治初期に 取り壊された。また、この鐘楼は嘉永二年(1849)佐久間象山がオランダ語の書物をもとに電信機を作り、北東七十メートルにあった 御使者屋に電線を張り、両者の間で電信実験に成功した「日本電信発祥の遺跡」である。


【矢沢家表門】
 矢沢家は松代藩において、代々無役席(筆頭家老格)を務め、江戸中期以後は石高1400石、預同心四十人の藩中最高の 家格だった。寛政四年(1792)に再建されたこの長屋門は、間口13.19m、奥行3.72m、高さ6.83mで、屋根は入母屋造の瓦葺。 門の両側に武者窓を備えた同心部屋を配し、右の同心部屋の隣には「供待」という腰掛を備えた開放の空間を備えている。鬼瓦や 碗風に配された六連銭や、白漆喰の壁など城門を思わせる格式を持っている。


【白井家表門】
 白井家は松代藩の中級武士。表門は三間一戸門形式の長屋門で、門部は太い槻の角材でつくられている。間口が20m余りの 長大な門で、背面に3つの居室部を敷設しており、門に住宅が続いている珍しい例。松代藩中級武士の代表的な門として当時の 面影を残している。


【藩校】
 真田幸教により案線2年(1855)に開校された。剣術、柔術、弓術、槍術、文家所などほぼ当時のままの面影を残している。


【真田家】
 文久2年(1862)真田幸教の義母のために築造された。松代藩に唯一現存する御殿建築。


【真田家御殿】


【松代 武家屋敷】