Japanese Castle

大島城

大島城について

 平安時代末期に南信濃源氏の片桐氏の庶流が城を築いたのが始まりとされているが、詳しい事は分かっていない。戦国期になると、この地を平定した武田信玄の配下秋山信友が飯田城に入り、伊那谷周辺を統治し、元亀2年(1571)には武田軍の南進の拠点とするために大改修をおこなった。武田軍が長篠で敗北した後は、逆に伊那谷の防衛拠点とするために改修され、武田信廉が入ったが、信長軍が侵攻すると戦う事なく武田信廉は撤退した。その後は一時織田領を経て、本能寺後は徳川領となった。現在は台上公園として整備されており、二重三日月堀をはじめとする多くの遺構が残っている。これらの遺構の多くは武田期に改修した頃のものと考えられているが、巨大三日月堀などは以外と徳川家が多用していたりするので、徳川期の遺構の可能性もある。
【丸馬出しと二重三日月堀】
 まず最初に驚かされるのが、ド迫力の二重三日月堀。幅は約40m程あり、堀底部の土塁もはっきりと残っている。ここまで規模の大きな三日月堀は、諏訪原城あたりの位のものだろう。三日月堀も多重になっているものは小山城の三重三日月堀くらいしか見た事がない。これだけ凄い遺構だが、この堀に囲まれた丸馬出しは現在民家になっており、土橋を使って出入りしているようす。なんて贅沢な家だろう。
【丸馬出し~三の丸】
 三の丸の西側、丸馬出しとの間には幅20m程の空堀が残っている。三日月堀を見た直後だと少し迫力に欠ける気もするが、これはこれで立派な空堀で横矢も見られる。
【三の丸虎口】
 丸馬出しは民家なので見学できず、北側から回り込んで三の丸虎口へ。丸馬出しと三の丸とは土橋で繋がっており、当時は土橋をわたった場所に両袖枡形が築かれていたらしい。現在もそ枡形の一部だったと思われる土塁が残っている。
【三の丸】
 城域の西側に位置し、南北約100mに及ぶ広大な曲輪で、西と北に馬出しを配置していた。西側には土塁が残っている。
【道路】
 三の丸の北側から本丸まで一気に貫かれている舗装道路。この道路のために遺構が壊されてしまっている事も残念だが、それ以上に縄張りのイメージが全て台無しになってしまう。出来るだけなかった事にして行きたいところ。ホント今からでも壊してもらえないかな・・・
【三の丸北側馬出し】
 三の丸の北側に設けられた馬出し。丸馬出しとセットで三の丸を守っていた。上記の台無し道路上に木橋が架けられ、三の丸と繋がっていたと考えられている。
【三の丸北側】
 三の丸の北側には、三の丸から土塁がダラダラと続き二重堀のような形状になっている。かなり技巧的で面白いつくりだが、やはり道路が堀も土塁もぶち抜いており、簡単に通れるようになってしまっている。こんな道路を築城者が見たら倒れてしまうだろうな。
【三の丸~二の丸馬出しの土橋】
 三の丸から二の丸へは、二の丸馬出しに接続する土橋が本来唯一の通路だった。この土橋の側面には僅かながら石垣のようなものが見られる。基本的には土の城だが、この石垣も遺構なのだろうか?
【二の丸馬出し】
 二の丸の西側に設けられた馬出し。この馬出しからは幅約20m程の空堀を挟んで三の丸の全域+先程の土橋が丸見え。三の丸を落とせたとしても、この曲輪からの攻撃にさらされる事になる。小規模な曲輪ながら主要部の守りの要となっている。
【二の丸馬出し~二の丸】
 二の丸馬出しと二の丸との間は比較的浅いものの、幅10m以上の掘切で隔てられている。当時はこの掘切に木橋が架けられ、二の丸と馬出しとを繋いでいたと考えられている。
【二の丸虎口】
 本来は二の丸馬出しからの木橋が架けられていたと考えられている土塁の開口部に例の道路が通されている。 
【二の丸】

 城域中心部に位置する約70m×80mの二の丸。西側には高さ1m程度の土塁が残っており、北隅には櫓台状の部分も見られる。
【二の丸南側空堀】

 二の丸南側の空堀は本丸の空堀と合流して天竜川まで続いているが、途中に微妙な土塁が見られる。現地解説版によると、馬出しとの事で、確かに小曲輪に見えない事もないが、どちらかというと二重堀のような感じもする。
【本丸~二の丸空堀】

 こちらは二の丸の東側、本丸との間の巨大掘切。自然地形を生かしたものと思われるが、それにしても規模が大きく幅は広いところで50m近くある。他の掘切に比べるとだいぶ切岸加工が甘い感じもするが、当時はもっと急だったのかもしれない。この堀底道を北に行くと井戸曲輪に至る。
【本丸~二の丸空堀】
 上記の本丸と二の丸との間の巨大掘切の堀底南端には土塁が設けられており、堀底からの進入を阻むと同時に目隠しの役割も果たしている。確かに、ここまで幅の広い堀だと、ただの谷底道だからな。
【本丸虎口跡】
 二の丸の南側には張出し部分があり、その部分と本丸との間に木橋が架けられていたと考えられている。実際に本丸側には木戸跡が確認されているらしい。ちなみに、例の道路はここまで続いている・・・
【本丸跡】
 城域の東端、天竜川に面した先端部に位置する本丸。南北も崖に囲まれた天然の要害となっている。約70m×80mの広大な本丸内部には、櫓台とみられる土塁や池の跡なども残っている。桜が満開の時期に行ってしまったが、あいにくの雨で誰もいなかった。晴れていたら沢山の人で賑わっていただろうと思うと、どちらが良かったのかは分からない。

【本丸 菖蒲池】
 こちらが土塁のすぐ横にある菖蒲池と呼ばれる池の跡。当時はここに庭園でもあったのかもしれない。
【マレットゴルフ場】
 本丸に限った事ではないが、この城跡は全域がマレットゴルフ場とやらになっている。もしやこのためにあの通路を通したのか?
【井戸曲輪】
 本丸の北側の崖下に位置する井戸曲輪。井戸の周囲を土塁で囲んであり、外部から見えないようにしてある。やはり水源はとても大事だったらしい。現在は埋まってしまっているが、井戸の内側には当時の石積みが残っている。
【姫観音】
 井戸曲輪のすぐ横に建つ姫観音。天正10年(1582)に織田軍が侵攻し落城した際に、姫が黄金の鶏を抱いてこの井戸に身を投げたという伝説があり、それ以来、井戸の底から鶏の声が聞こえると言われている。ありがちな話ではあるが、城主も戦わずして逃げているのに、何故姫が井戸に身を投げたのだろう?それに土塁で囲うほど大事な井戸だったはずなのに、飛び込んでしまったらもう使えないよ? などと考えてしまう。