Japanese Castle

鈴岡城

鈴岡城について

 南北朝時代に小笠原宗政が築いたのが始まりとされ、室町期には鈴岡小笠原家の居城として機能した。松尾小笠原家、松本小笠原家と信濃守護の座を争い、室町中頃には一時鈴岡小笠原家が信濃守護となったが、明応2年(1493)にお隣の松尾小笠原家に攻められ落城した。その後、府中小笠原家が松尾城を攻め落とし、鈴岡小笠原家を再興したが、天文23年(1554)に武田信玄の力を借りた松尾小笠原氏に再び攻められ落城し、その後は松尾城の支城となった。天正10年(1582)の織田信長の侵攻時には、松尾城と同様に抵抗せずに開城している。天正18年(1590)の松尾城の廃城と共に鈴岡城も廃城となったと思われる。現在は県史跡の松尾鈴岡公園として整備されており、主郭部周辺の遺構が良く残っている。
【出丸】
 主郭の北側、尾根の先端に位置する南北50m程の曲輪。松尾城跡から毛賀沢川に架かる水路橋を渡って急傾斜を登ると、この出丸に至る。松尾城から攻められた際も真っ先のこの郭がやられたのだろうか?まぁ結構急傾斜なので、迂回ルートかもしれないが。
【出丸~主郭】

 本丸と出丸とを隔てる掘切。深さ約6m、幅約20mに及ぶ規模の大きな掘切で、主郭~二郭の掘切と合流して毛賀沢川まで続いている。
【主郭】

 河岸段丘の先端、城域の東端に位置する本丸。急峻な自然地形と空堀によって囲まれた広大な郭で、広いところで幅80m程ある。西側には高さ1m程の土塁が長さ30m程にわたって残っている他、池跡も残っている。
【主郭石碑】
 主郭跡に建てられている本丸石碑。石碑の土台に使われている亀のような石の裏側には、矢穴が残っている。鈴岡城に石垣は見られないが、いつ頃切り出されたものなのだろう?
【主郭 ひょうたん池】
 主郭の石碑近くにはひょうたん池と呼ばれる池跡が残っている。子供でも掘れそうなサイズの池だが、これが当時からの庭園の遺構だとすれば、一時鈴岡小笠原家が信濃守護になった頃の栄華の跡かもしれない。
【主郭~二郭】

 主郭と二郭との間の空堀。深さ約6m、最大幅約18mの規模の大きな空堀で、こちらも賀沢川まで続いている。
【二郭】

 主郭の南西側を覆うように設けられたL字形の曲輪。南北、東西100m程ある広大な曲輪で、主郭より一段低くなっている。現在は公園化され遊具などが置かれているが、発掘調査が行われていないのか、建物の状況はよく分かっていないらしい。
【二郭空堀】
 発掘調査の結果、傾斜角60°以上になる薬研堀だった事が分かっている。畝も見つかっている。現在、南の一部は埋め立てられて駐車場となっているが、当時は東側まで続いていた。この埋め立て部分がなければ、二郭周囲の空堀が繋がってだいぶイメージも違ってくるんだろうな。 また、堀の外側には武者走り状の土塁も残っており、外郭と繋がっている。

【二郭東側空堀】
 東側の空堀。上記の南側の駐車場で分断され、気付きにくい感じになってしまっているが、しっかりと堀が続いている。
【二郭空堀 畝跡】
 二郭の北側、現在二郭内の駐車場に続く車道は最近になって設けられてしまったもので、この部分からは、3本の畝状の地形が見つかっているらしい。位置的には土橋の名残かもしれないな。
【二郭空堀 武者走り跡】
 二郭南側の堀の外側は現在車道となっているが、武者走り状の土塁だったらしい。この車道の南側はまた空堀になっているので、この部分は二重堀のような形状になっていたものと思われる。
【外郭空堀】
 二郭の西側に位置する外郭。現地解説版には的場とも書いてあり、確かに的場に適した感じの細長い郭で、遺構や遺物は発見されていないらしい。郭の西側の空堀は、南に行くほど深い箱堀となっている。
【外郭土橋】
 外郭の空堀は南に行くほど深く、北に行くほど浅く狭くなっており、北端では土橋状になっているが、当時からの遺構かは不明。
【本城と遠見原】
 城域の西側は『本城』と呼ばれる斜面があり、その先の高台が『遠見原』と呼ばれている。遠見原は高台なのでまぁ分かるとしても、その途中の本城というのは、わりと謎。城のメインとなりそうな場所でもないしなぁ。
【鈴岡城跡から見た松尾城跡】
 鈴岡城跡から見た松尾城跡。川を挟んだお隣の松尾小笠原氏に二回にわたって攻め落とされている。同族なのに・・・