高遠城 本丸・二の丸



【本丸跡】
image-1  天守は無く平屋造りの御殿や櫓、土蔵などが建てられていたが、明治期に廃城となり、 建物は取り壊された。 天正10年(1582)の戦いの際、城主の仁科五郎盛信はここで切腹し、自らの手で 腸を壁に投げつけたと言われている。

【桜雲橋と問屋門】
image-1 image-1  本丸と二の丸との間に架かる桜雲橋と、橋を渡ったところにある問屋門。問屋門は 昭和20年代、問屋役所建物取り壊しの際に売却されていたものを買い戻し移築された。

【太鼓櫓】
image-1  高遠城の鼓楼は搦手にあったが、廃城後は対岸に設けられ時を報じていた。 明治になり、現在の本丸の南西隅に新たに建てられ、昭和18年まで旧制通り朝6時〜夕方6時まで 偶数時に打たれていた。この際に使われていた大太鼓は、現在歴史資料館に展示されている。

【新城神社・藤原神社】
image-1  天保2年(1831)に7代藩主の内藤頼寧により本丸の北西に建てられた神社で、仁科五郎盛信が 祀られている。明治12年に以前から城内にあった藤原鎌足を祀った藤原社と合祀し、新城神社となった。

【本丸土塁】
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 東側と南側の一部には、高さ2m程の土塁が残っている。

【本丸空堀】
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 本丸周囲の空堀。深さ10m以上はありそうなかなり規模の大きなもので、 一部には水が溜まっていた。


【二の丸】
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 本丸の周囲を取り囲むように配された二の丸。倉庫、役所、馬屋、馬見場などが建てられていた。 東側の空堀沿いには土塁が良く残っている。

【高遠閣】
image-1 image-1  昭和11年に休憩所として二の丸に建てられた木造総二階建て、入母屋造りの規模の大きな建物。 昭和初期の貴重な建物として、国の登録有形文化財となっている。

【二の丸北側虎口】
image-1 image-1  二の丸北側の空堀に土橋が造られ、三の丸とつながっている。桜の季節になると、 ここから入場料を徴収しているらしく、現代版の番所が設置されている。

【中堀】
image-1 image-1  中堀と呼ばれる二の丸東側の空堀。この辺りの空堀もかなり規模が大きいが、 これでも廃城後3m以上埋まっているらしい。

【外堀】
image-1 image-1  二の丸の南側から搦手方面に続く外堀。法憧院曲輪への堀底道も兼ねていたと思われる。