上田城
本丸
【東虎口櫓門】 |
本丸の東側、大手にあたる櫓門。この櫓門の左右の南櫓と北櫓の移築復元された建物だが、この櫓門は復元建造物。
明治10年頃に撮影された古写真と発掘調査の結果などをもとに平成6年に復元され、すでに移築復元されていた
南北の櫓とともに東櫓門として完成した。
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【東虎口 南櫓・北櫓】 |
大手にあたる本丸東虎口の南北に位置する二重櫓。明治初期に民間へ払い下げられ、市内に移築されていたものを買い戻し、
昭和になって現在の場所に復元された。これらの櫓と西虎口に現存する西櫓はいずれも同じ造りで、二層二階、桁行五間、
梁間四間の妻入り形式、屋根は入母屋造りで本瓦葺き、壁亜は白漆喰塗籠大壁となっている。
これらの櫓は、江戸時代初期の貴重な城郭建造物として、長野県宝に指定されている。
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【真田石】 |
東虎口使われている城内一の大石で、真田昌幸が上田城築城の際に太郎山から掘り出したと言われている。
真田信之が松代へ移封する際、この石を家宝として持っていこうとしたが全く動かなかったと伝えられている。
実際のところ、現在見られる石垣は仙石忠政が築いたものなので、どこまで本当かは怪しいもの。
まぁ城にありがちな話。
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【本丸】 |
半輪郭式の城域の中心部に位置する本丸。約90m四方の方形で、約2m程高くなった北側の上の台と南側下の台とに分かれている。
南の台には真田神社が建てられているが、北の台には建物はなく、広場になっている。本来は本丸御殿のような建物が建てられる場所だが、
江戸期を通じて侍番所程度の建物しか建てられていなかったらしい。
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【真田神社】 |
本丸南に建てられている真田神社。真田父子と江戸期の歴代藩主仙石氏、松平氏が祀られているが、真田神社。
藩主としての時期は仙石氏や松平氏の方が圧倒的に長く、現在残る遺構もほとんどは江戸期のものだが、やはり真田人気はすごい。
巨大な赤備え兜までつくられていた。ちなみに、2010年に訪れた時と2019年に訪れた時の写真を比べると本殿が変わっていた。
いつの間にか建て替えられていたらしい。
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【真田井戸】 |
真田神社境内にある井戸で、城内唯一の大井戸でもあった。この井戸は抜け穴となっており、城の北方、太郎山麓や藩主居館跡に通じ、
敵に包囲されてもここから兵糧を運び入れたり、城兵の出入りが出来たとの伝説がある。発掘調査では抜け穴は見つかっていないが、
真田氏時代の城は一度完全に破壊されているので、当時は本当に抜け穴があった可能性も0ではない。
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【本丸周囲の水堀】 |
本丸の周囲、尼ヶ淵に面した南以外の三方に掘られた水堀。ほとんどが素堀のままだが、堀幅は30m、深さ10m程もある
規模の大きな堀で、掘った土で土塁を築かれている。 現在は水が引かれているが、当時は水源となる水路の流入は無く、
江戸時代には完全に水が干上がって空堀となっていた時期もあったらしい。ちなみに、冬に訪れた時は、
堀の水がしっかり凍ってしまっており上を歩けそうだった。これなら確かに空堀の方が良かったかも。
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【本丸土塁】 |
本丸の周囲には堀を掘ったときの土で築かれた土塁が巡り、絵図によると土塁上には瓦葺きの土塀が建てられていた。
発掘調査により、土塀基礎の小礫列が直線上に検出されている。
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【本丸 北東隅櫓跡】 |
本丸の北東部には2棟の隅櫓が建てられていた事が江戸時代の絵図から知られており、平成6年~7年に行われた発掘調査により、
正確な位置や大きさが確認された。その結果、隅櫓は石垣を築かずに土塁の上に直接建てられており、規模は現存する西櫓などと同じ
桁行5間、梁間4間と推定されている。現在、隅櫓の中心に建てられていた芯柱の礎石がそれぞれ残っているが、
いずれも明治時代以降に動かされ、本来の位置とは少しずれているらしい。また、鬼門に当たる丑寅の方角であるため、
隅を鬼門除けとして切り込んであるも特徴で、二ノ丸の北東隅も同様に削られていた。
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【北西隅櫓跡】 |
本丸北西隅にも二層の隅櫓が建てられていた。この櫓は二ノ丸西虎口の正面に位置し、西から進入に備えていた。
明治維新後に民間に払い下げられ、現在は残っていない。発掘調査の結果、他の隅櫓と同じ桁行5間、梁間4間の規模と推定されている。
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【本丸 西櫓】 |
本丸の西側に現存する西櫓。真田氏の後に城主となった仙石氏によって本丸内に建てられた7基の櫓の中で、唯一寛永期の
建築当初のまま残されているもので、寛永3~5年(1626~1628)にかけて建てられた。1階が桁行5間(9.85m)、梁間4間(7.88m)で、
2階はそれより一回り小さく造られており、外壁には、寒冷地に多く見られる初期城郭建築の腰下見板が張られ、壁の上部から
軒廻りにかけては防火のために白漆喰で柱などを塗りこめた大壁造りとなっている。その他、矢狭間・鉄砲狭間や突き上げ戸の
「武者窓」が設けられている。本丸の西虎ロを固める重要な櫓だったが、戦のなかった江戸期は倉庫として使用されていた。
この頃は櫓の名称は特になく、南櫓と北櫓が復元された後に西櫓と呼ばれるようになった。昭和18年~24年に移築復元された
南櫓、北櫓とともに、長野県内では数少ない江戸時代初期の城郭建築の貴重な遺構として、昭和34年に長野県宝に指定された。
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【本丸西虎口】 |
搦手にあたる本丸西側の虎口。当時は枡形が形成され、枡形の先に櫓門が建てられている堅固な造りだったが、
一時本丸に民家があった際に車道となり、枡形も破壊されてしまっている。
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