上田城
二ノ丸
【二ノ丸】 |
尼ヶ淵に面した南側以外の本丸の周囲を取り囲むように配された二ノ丸。本丸の作事途中に仙石忠政が病死し、築城が中断されたため、
二ノ丸には江戸時代を通じて土蔵程度の建物しか建てられなかったが、周囲の土塁と堀などの縄張りはほぼ完成していた。
明治以降は監獄署や病院、動物園などに転用されていた。
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【東虎口】 |
大手筋にあたる二ノ丸東虎口。当時は内枡形を形成していたらしいが、現在は残っていない。現在の遺構は仙石氏のものだが、
上田合戦の際には、この辺りで徳川軍を撃退したと言われている。そう考えると、結構本丸の目の前まで来ていたな・・・
仙石氏時代以降は二ノ丸の建物は建てられなかったため、枡形の石垣に簡素な木戸が設けられていただけの寂しい状況だったらしい。
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【東側空堀】 |
本丸東側の堀。堀幅約30m、深さ7~8m程の規模の大きなもので、当時は水堀だった。
現在は堀底が遊歩道となっているが、一時期電車も走っていたらしく、駅の跡も残っている。
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【東土塁と鐘楼】 |
二ノ丸の東側には高さ3m程の土塁が続いている。堀を掘ったときの残土を積んで築かれた。
現在、東虎口の近くの土塁上には、戦後になって復元された時の鐘が移設されている。
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【北虎口】 |
二ノ丸の北虎口。上田城の北側には北国街道や侍屋敷があり、真田昌幸が築城した当初はこちらを大手とするつもりだったが、
途中から徳川に備えて東側に大手を変更したと考えられている。現在、枡形の石垣の一部が残っており、特に西側部分は
建築当初のものらしい。大手にしようとしていただけあり、流石に結構大石が使われている。
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【北虎口 櫓門礎石】 |
平成3年に行われた発掘調査で、二ノ丸北虎口から櫓門の礎石が発見されたが、実際にここに櫓門が建てられることはなかった。
仙石忠政は建てるつもりだったらしいが、病死によって中断したものと思われる。
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【北側 水堀跡】 |
二ノ丸の北側には川の流れを変えて造った百間堀と呼ばれる幅の広い水堀が設けられていた。現在、堀跡は埋め立てられ
陸上競技場や児童遊園地となっているが、周囲より一段低くなっており現在も堀の名残をとどめている。
また、百間堀沿いには石垣が残っている。
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【百間堀の樋】 |
百間堀にかかる土橋に設けられた樋。百間堀は元々川の流れを変えて造った水堀だったため、土橋の東側から西側の掘の水を流していた。
当初は木製の樋だったが、木製だと腐ってしまい、度々改修が必要だったため元禄15年(1702)に石の樋に改修した。
現在見られる石の樋はこの時のものと思われる。
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【二ノ丸北側】 |
二ノ丸の北東一帯は駐車場となっており、二ノ丸の北東隅の鬼門除けの部分が色分けされている。
しかし、そのさらに北東側の駐車場の境界辺りにも3m程の段差が続いている。ここも明らかに曲輪の名残っぽくみえるけど、違うのかなぁ?
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【二ノ丸西側 小泉橋】 |
二ノ丸西側の虎口にあたる小泉橋。当時は土橋と枡形門で形成されていたが、百間堀の野球場の建設にともなって壊された。
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【二ノ丸西側土塁、空堀】 |
二ノ丸西側の土塁と空堀。この辺りは畑地になっており、他に比べて手つかずの状態で残っている。
高さ3m程の土塁と堀跡が明瞭に分かり、土の城マニア必見のエリア。
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