大和郡山城
大和郡山城について
筒井順慶が天正8年(1580)に大和支配の拠点として城を築いたのが始まり。その後、天正13年(1585)に豊臣秀長が百万石の太守として入城し、本格的な城が築かれた。その後の城主の石高はあまり高くなかった事もあり、現在見られる遺構の多くは秀長の頃のもの。関ヶ原後は徳川方に接収され一時廃城となり、建物は全て伏見城に移された。しかし、大阪の陣後の元和5年(1619)に松平忠明が入城し、幕府直轄事業として再度整備され、水野氏、松平氏、本多氏などの譜代大名を経て享保9年(1724)に柳沢吉保の長男の吉里が入城した。それ以降は柳沢氏が代々城主となり大和の中心として明治まで続いた。近年は整備が進められているが、天守台付近はかなり残念な感じになってしまっている。
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【三の丸跡】 |
三の丸跡は一部が三の丸緑地となっている他は市街地になっているが、当時は周囲を水堀に囲まれており、五軒屋敷と呼ばれる家老屋敷などが建てられていた。
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【三の丸柳門跡】 |
三の丸の南に設けられていた柳門の跡。現在も石垣が残っている。現在は交差点になっているが、この門の外側は当時は水堀だった。
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【外堀】 |
陣甫郭と三の丸との間の外堀。鉄門の南側は埋め立てられて一部線路になっているが、北側は現在も水堀が残っている。この外堀沿いに設けられた南北に長い陣甫郭には、石垣上に175mに及ぶ長大な土塀が築かれており、矢狭間33ヶ所、鉄砲狭間が46箇所も設けられていたらしい。確かに凄い数だが、良くそんな詳細な記録が残っているな。
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【鉄門跡】 |
二の丸の東に設けられていた鉄門跡。元和5年(1619)の松平忠明が入城する際に伏見城から櫓門が移築されたらしい。現在建物は残っていないが、東側の櫓台の石垣が残っており、かなり規模の大きい門だった事が分かる。ちなみに、訪れた日はお城祭りとやらをやっていて、かなりの混雑。何もやっていないときに来たかったな。
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【追手門と追手向櫓】 |
毘沙門郭の東に位置する内枡形の堅固な追手門。秀長築城当時からこの場所が大手だったと思われるが、関ヶ原後建物は全て伏見城に移された。その後、元和5年(1619)の松平忠明入城する際に、他の門とともに伏見城から再び移築された。当時は一庵丸門と呼ばれていたが、柳沢氏入城以降、梅林門と改称された。明治期になり、全ての建物が取り払われ、現在見られる門は昭和53年に豊臣秀長時代の門をイメージして再建されたもの。再建に伴う発掘調査で豊臣時代の建物の礎石が見つかっており、そのまま現在の再建建物に使われているらしい。その後、追手向櫓も再建されている。
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【追手東隅櫓】 |
追手門の東側には追手東隅櫓も再建されている。二重櫓で太鼓櫓として使われていた櫓で、当時は大手門から多門櫓で連結していた。。現在も中に太鼓が置かれているらしい。
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【毘沙門郭】 |
本丸の東に設けられた曲輪で、周囲の水堀と石垣が良く残っている。本丸とは極楽橋で繋がっており、当時は追手門からこの曲輪を通り極楽橋を渡って本丸に至るのが正規のルートで、本丸に次ぐ重要な曲輪だった。正保の城絵図では二の丸とされている。
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【極楽橋跡】 |
毘沙門郭と本丸との間には、極楽橋と呼ばれる木橋が架けられており、本丸側には門が設けられていた。現在でも、その石垣が残っている。柳沢氏の入城以降、この門は白沢門と改称されたらしいが、享保9年(1725)の絵図にこの橋は何故か描かれていない。改称されたと言う事は当然門はあったはずだが、よく分からないな。
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【土橋】 |
現在、極楽橋は架けられていないので、毘沙門郭からは南側の土橋を通って本丸に入る。こんな場所に土橋があったら、極楽橋の意味がなくなってしまいそうだが、良いのかな?しかし、当時の絵図にも描かれているので、最近通路として造られたものでもないらしい。少し違和感があるな。
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【竹林門】 |
本丸と南側の藩主の屋敷が置かれていた二の丸とを繋ぐ橋で、当初は台所門と呼ばれていたが、柳沢氏の入城以降竹林門と改称された。現在は土橋となっているが、これは明治期に造り替えられたもので、当時は木橋が架けられていた。二の丸からこの橋を渡って本丸に至るのが一般的なルートとなっているが、当時この橋は搦手だった。
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【本丸跡】 |
輪郭式の中央部に位置する本丸。北側には天守台、南側には柳沢吉保を祀った柳澤神社が建てられている。この神社が建てられたのは、明治になってから。柳沢吉保は直接この城とは関係ないような気がするが、やはり吉里だと知名度的に少し弱かったのだろうか。周囲には高さ10m以上の高石垣が築かれているが、比較的小さい石が多く使われた野面積みで、豊臣秀長時代まで遡る可能性もあるらしい。
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【櫓台】 |
本丸の西側の一段高くなった場所には、御厩向櫓が建てられていた。確かに堀を隔てた場所には厩郭があったので、非常に分かりやすいネーミング。当時は本丸内にはここ以外にも多くの櫓が建てられていたと思われる。
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【天守台】 |
本丸の北側寄りに築かれている天守台。現在見られる天守台は豊臣期のものではなく、松平忠明が城主だった元和5年(1619)~寛永16年(1639)頃に築かれたものらしい。確かに比較的大きい石が多く見られ、転用石も多く見られる。南には付櫓台も設けられており、当時は付櫓南面から天守台に登れるようになっていた。まぁそれはともかく、天守台の周囲はビッタリ舗装されてしまっている。どうしてこういう整備をしてしまうのだろうか。雰囲気も台無しだし、何より遺構だってどうなっているか分かったものではない。一番やって欲しくない整備方法。こんな事するくらいなら、極楽橋でも再建した方がよっぽど良いのに。
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【天守台】 |
訪れた日はちょうど自閉症の啓発活動か何かで青くライトアップされていた。ライトアップも良いけど、この地面を何とかして欲しい。
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【天守台 礎石】 |
天守に関する記述は殆ど残っていないため、実際に天守が建てられていたか分かっていなかったが、近年の発掘調査の結果、礎石や金箔瓦出土した事から豊臣秀長の頃に天守が建てられていた事が分かった。周囲の石垣は松平忠明の頃のものらしいので、少し違和感があるが、金箔瓦が出てきた以上は豊臣時代のもので間違いなさそう。現在は天守台上には礎石跡が平面展示され、一部はガラス張りで当時の石が見られるようになっているが、こんなビッタビタに固められてしまってはなぁ・・・
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【天守台 さかさ地蔵】 |
天守台の北面の石垣の間に、逆さになった地蔵が見られる。確かに言われれば何とか分かるが、良く気付くものだ。ちなみに、この石仏は大永3年(1523)に造られたものらしい。
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【天守台 北東隅】 |
北東隅に使われている大きな転用石。宝篋印塔の一部と思われる。転用石の大多数は室町時代のものらしいが、中には奈良時代や鎌倉時代のものもあるらしい。
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【埋門跡】 |
天守台の東側には埋門跡の石碑が建てられている。現在は跡形もない。と言うか、舗装されているので、何の痕跡も分からない。
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【厩郭跡・緑郭跡】 |
本丸の西側には水堀を挟んで厩郭と緑郭が設けられていた。松平忠明が城主だった元和5年(1619)~寛永16年(1639)頃に設けられた曲輪で、当時は新宅郭と呼ばれていたらしい。現在はいずれも高校の敷地となっている。
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【永慶寺山門】 |
城下にの永慶寺に山門として移築されている南御門。脇戸付きの棟門で、城門としては割と質素な感じがするが、秀長の時代に建てられたものとの事なので、かなり古いもの。郡山城の遺構として残る唯一の建造物として、大和郡山市の文化財に指定されている。
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