多聞城跡
多聞城跡について
永禄3年(1560)、大和に侵攻した松永久秀によって大和支配の拠点として築かれた平山城。この頃既に白壁の櫓などが建ち、主殿や庭園は京都の寺院や貴族の邸宅を遙かに凌ぐ豪華さだったらしい。また、瓦葺きの四層櫓も築かれていたらしく、当時としては先進的な城だった。天正元年(1573)久秀は信長に反旗を翻し多聞城は織田方の武将に明け渡され、天正4年(1576)に取り壊された。短い期間しか使われず、現在は遺構も殆ど残っていないが、近世城郭の先駆けとも言われる城で、信長などの城造りにも影響を与えたほか、近世城郭の多聞櫓の名前の由来ともなっている。
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【中学校】 |
城山は現在中学校の敷地となっており、南側に正門がある。当時もこの辺りが大手だったらしい。正門を入ったところに石碑が建てられているが、これ以上は学校内なのであまりウロウロ出来ない。正門からの高い階段を見ると、確かに城の雰囲気を感じるが、ここに通う生徒達は大変だな。
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【墓石】 |
正門の横に墓石や石塔がまとめて置かれている場所が何カ所かある。廃城後に石材は郡山城に運ばれたが、その際に運ばれずに残ったものと言われている。郡山城ではあれほど転用石を使っているのに、これらは何故使わなかったのだろう?
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【掘切】 |
城山の東側、善性寺山との間を隔てる掘切跡。現在は堀底が車道となっているが、かなりの規模だったと思われる。しかし、城側の斜面は割と緩やかで直上出来てしまいそうな感じ。実際に階段も設けられている。当時はもう少し急だっただろうな。
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