【一文字門跡】 |
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山頂の城郭へと続く大手道の麓の門で、高い石垣が二重の枡形を構成し、正面の深い堀には 跳ね橋が架けられた厳重な構造だったらしい。現在は残念ながら石垣の一部が残っているのみ。 |
【城主居館跡】 |
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一文字門跡のすぐ横にある城主の居館跡。当時は3層の隅櫓と塀で繋がれた 3基の2重櫓が建ち並んでいたらしい。現在は公園になっている。 |
【七曲り道】 |
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一文字門から山頂の城郭までの大手道にあたる七曲り道。複数回折れ曲がり比較的緩やかな道だが、 その分結構距離がある。この道の横には竪堀もあるらしいが、草木に覆われて確認できなかった。 |
【四ッ門跡】 |
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七曲り道を登ったところにある門で、七曲がり道の他、二ノ丸側、三ノ丸側、井戸方面へと 4つの門がある特殊な形状をしていた。当時はこの石垣に囲まれた部分を覆うように櫓門が 建てられていたらしく、礎石も残っている。 |
【三ノ丸跡】 |
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山頂部で最も広い曲輪。周囲を石垣で囲まれ櫓台なども残っているが、訪れたのが夏という事もあり、 多くの部分が藪に覆われていた。 |
【籾櫓跡】 |
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三ノ丸北隅に位置する籾櫓跡。この辺りも藪で確認しにくいが、石垣がしっかりと残っている。 |
【玉櫓跡】 |
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三ノ丸西側に位置する玉櫓跡。鈍角で直線的な珍しい形状の石垣が確認できる。 |
【竪堀?】 |
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玉櫓近くにある石材運搬用のレール。一見竪堀のように見えるが違うらしい。 |
【武具倉跡】 |
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武具倉跡の倒れた案内があったが、どの辺に建てられていたのかは良く分からなかった。 |
【御鐘門跡】 |
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二ノ丸の虎口にあたる御鐘門の石垣。堅固な枡形の石垣がしっかり残っている。 |
【二ノ丸】 |
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御鐘門の内側が二ノ丸。現在整備中らしく石材が散乱し、一部にはブルーシートがかけられていた。 |
【出櫓跡】 |
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二ノ丸を進むと見えてくる出櫓の見事な高石垣。本丸の石垣を含めるとかなりの高さになり、見応えがある。 |
【黒門跡】 |
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出櫓の横にあった黒門の跡。道が左右に分かれており、当時はここに登城用と下山用の門が 2つ並んでいた珍しいつくりだったらしい。 |
【平櫓跡】 |
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本丸の周囲を取り巻く腰曲輪の東側を守る平櫓の櫓台。石垣が残っている。 |
【埋門跡】 |
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腰曲輪の南西面にある埋門の跡。一部が崩れているものの、枡形の石垣がしっかり残っている。 この門の外側に下りていくと、本庄氏時代の遺構が残っている。 |
【本丸】 |
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標高135mの臥牛山山頂に築かれた本丸。西隅には3層の天守が建っていた他、 周囲は一段高く石垣が積まれており、多門櫓のようなものも建てられていたと思われる。 |
【本丸石垣】 |
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本丸周囲の石垣。山上の城でありながら高さのある見事な総石垣が築かれている。 基本的には打込み接ぎの布積みが多いが、本丸南東面には築城初期の野面積みの乱積みも見られる。 |
【本丸虎口】 |
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外枡形と内枡形を組み合わせてコの字状に折れ曲がる堅固な虎口。 石垣と門の礎石がしっかりと残っている。 |
【天守台】 |
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本丸西隅に位置する天守台。当時は3層の天守が建てられていたが、寛文7年(1667)の落雷で焼失し、 以後再建されなかった。 |
【本丸からの眺め】 |
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本丸からは村上の町と日本海が見渡せる。天気が良いと粟島や佐渡島まで見えるらしい。 |
【本庄城跡】 |
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戦国期に村上氏が入る以前の本庄氏の居城だった。本丸跡は現在の村上城とほぼ一致している為、 改変されているが、西側山腹には数段の帯曲輪の他、竪堀や虎口跡などが残っている。 この時期、数回にわたり攻防戦が行われており、永禄11年(1568)には上杉謙信にも攻められているが、 時の城主本庄繁長は籠城戦にもちこみ、落城しなかった。 |
【坂中門】 |
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東側山腹の坂中門跡。石垣が残っているらしいが、藪に覆われて確認できなかった。 |
【井戸】 |
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東側山腹、坂中門近くにある井戸跡。寛文年間に掘られたものらしい。 井戸と言うよりため池に近い感じのもので、現在も水が溜まっていた。 |
【下渡門跡】 |
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城主の居館や重臣の邸宅があった山麓部の曲輪の門。絵図によると左に折れる枡形形状をしており、 門の両側には二棟の二重櫓が建てられていた。現在も門の外側の堀跡や石垣が残っている。 |
【食い違い】 |
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城下町には当時の名残と思われる食い違いの道などが残っている。 |