新発田城



【新発田城】
image-1  戦国期は、上杉景勝を7年間にわたり苦しめた新発田重家の乱で有名な新発田氏の居城 だったが、天正15年に落城した。その後、慶長3年(1598)に春日山城に入城した堀秀治の 与力として新発田に入った溝口氏により、慶長7年(1602)から承応3年(1654)の56年間をかけて、 本丸、二ノ丸、三ノ丸に11基の櫓と10ヶ所の門を備えた壮大な城郭に造り替えられた。 外様ながら新発田藩は一度の国替えも無く、廃藩置県まで12代270年間にわたり溝口氏の居城となった。 明治維新の際には奥羽列藩同盟に包囲され、庄内・米沢などの幕府軍と戦い、明治6年 (1873)の廃城令により破却された。 現在は本丸と二ノ丸の一部が陸上自衛隊新発田駐屯地の敷地となり、周囲も市街地かが進んでいるが、 本丸南側には移築櫓の他、二基の櫓が復元されている。


【本丸】
image-1 image-1  本丸の北半分は陸上自衛隊新発田駐屯地の敷地となっているが、南半分の見事な 切込み接ぎの石垣と水堀が残っている。もっとも、当時から全面的に石垣が用いられていたのは 現在残っている部分だけだったらしい。

【三階櫓】
 天守がなかった新発田城で、実質的な天守の役目をはたしていた三階櫓。 屋根の棟が丁字状で、全国的に珍しい鯱を3匹戴く屋根だった。 明治期に破却されたが、平成16年に伝統工法を用いて忠実に復元された。
image-1 image-1 image-1

【旧二ノ丸隅櫓】
 本丸の鉄砲櫓があった場所には現在、二ノ丸にあった隅櫓が解体移築されている。 この旧二ノ丸隅櫓は大火後の寛文8年(1668)に再建されたもので、表門と同じく 外壁は海鼠壁で造られている。本丸表門とこの隅櫓が新潟県内に残る唯一の 現存城郭建築遺構で、現在は国の重要文化財に指定されている。
image-1 image-1 image-1

【表門】
image-1  現在の門は享保17年(1732)に再建された二階建ての櫓門で、旧二ノ丸隅櫓と共に 国の重要文化財に指定されている。門の両側の石垣は前面にせり出しており、 ここから攻撃できるようになっていたと考えられる。 外壁は旧二ノ丸隅櫓同様海鼠壁で造られている。また、表門前の土橋は当時は木橋だった。

【辰巳櫓】
image-1 image-1  本丸表門の東にあった辰巳櫓。こちらも木造で忠実に復元されている。


【土橋門】
 帯曲輪の入口にあった薬医門で、この門と帯曲輪で本丸の表門への守りを固めていた。 正保元年(1644)の絵図面にも描かれている事から、それ以前に創建されたと考えられる。 寛文8年(1668)の大火により焼失したが、元禄13年(1700)までには再建されている。 明治に入り新政府の命で取り壊されたが、古写真や絵などが残っており再建が計画されている。
image-1 image-1 image-1


【帯曲輪】
image-1  本丸表門の守りを固めるための曲輪で、帯曲輪の虎口にあたる土橋門を破り、 表門に向かう間、本丸から攻撃できるように造られている。


【二ノ丸】
image-1  本丸の西側に位置する二ノ丸。現在は公園になっている。


【堀部安兵衛】
image-1  二ノ丸跡に建つ堀部安兵衛像。忠臣蔵で有名な堀部安兵衛は新発田出身だったが、 父が辰巳櫓焼失の責任をとって藩を辞し浪人となり、安兵衛は新発田を離れた。