高田城



【高田城】
image-1  慶長19年(1614)に松平忠輝の居城として築かれた近世の平城。築城は幕府の命による天下普請で行われ、 仙台藩主伊達政宗ら13大名によって築かれた。大坂冬の陣の直前と言う事もあり工事は急ぎで進められ、 近世平城としては珍しい石垣の無い城となった。 明治に入ると陸軍第13師団入城し、土塁や堀など多くの遺構が壊されたが、現在は三重櫓などが 復元され、県の史跡に指定されている。


【本丸】
 東西215m、南北228m程の広さの本丸内には城主の御殿などが立ち並び、高さ10m程の 周囲の土塁上には天守の代わりとなる三重櫓の他、多門櫓2棟、櫓台、御茶屋台なども建てられていた。 明治に入り、陸軍第13師団入城の際に周囲の土塁などが切り崩されたが、原形は残されていた。 現在は北半分が上越教育大学の敷地になっている。
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【三重櫓】
 本丸南西隅の土塁上に築かれた櫓で、天守に代わる城の象徴だったが、 明治19年(1886)頃に取り壊された。現在の櫓は平成5年に資料や 発掘調査の結果に基づいて復元されたもので、東西5間(9.1m)、南北6間(10.9m)、 高さ15m程の御殿風造りで建てられている。
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【三重櫓内部】
image-1 image-1  三重櫓の内部は1,2階が資料館となっており、発掘された瓦なども展示してある。

【極楽橋】
 本丸南側の本城堀に架かる木橋。松平忠輝が築城した際に設けられたが、 明治期に堀を埋め立てられた際に、木橋も壊された。現在の木橋は平成14年に復元されたもので、 文献や資料をもと多くの部分が木造で復元されている。また、発掘調査の結果、築城当時は 6〜7本の木をまとめて橋脚を造っていた事が分かった。
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【本城御門】
 本丸の南側、極楽橋を渡ったところにあった枡形門の跡。門自体は残っていないが、 左右の土塁が残っており、かなり巨大な枡形門だった事が分かる。また、本城御門があったと 思われる部分の発掘調査が行われていた。
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【東不明門跡】
image-1 image-1  本丸の東側、土橋を渡った場所には内枡形の東不明門が建てられていた。現在は残っていないが、 二度折れ曲がる道路に当時の面影が残っている。


【本城堀】
 総延長1300mに及ぶ本城堀とも呼ばれる内堀。堀幅36〜58m、深さは平均で5m程の薬研堀で、 当時はもっと深かったと考えられる。
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【二ノ丸】
 本丸の周囲を取り巻く二ノ丸。現在は博物館や公園になっており、遺構は少ないが、 南西隅には土塁が残っている。
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【二ノ丸土塁】
 石垣が無い高田城では、代わりに堀度土塁で城の防御を固めていたが、明治になって陸軍第13師団が 入城した際に多くの土塁が崩されてしまい、現在本丸以外で残っている土塁は二ノ丸南西の土塁のみらしい。
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【柳門跡】
 二ノ丸にあった柳門のあたりには土塁の残欠のようなものが見られるが、当時のものかは 定かではない。また、二ノ丸内に建てられている博物館前には柳門の礎石が展示されている。
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【三ノ丸】
image-1  城域の南に位置する三ノ丸の跡。現在は駐車場や公園になっており、遺構は残っていない。


【東三ノ丸】
image-1 image-1  本丸の南東に位置するかつて三ノ丸があった場所。現在は多くの桜が植えられ、桜見本園として 親しまれている。


【大手橋と大手堀】
image-1 image-1  城域の西に位置する大手橋と大手堀。堀幅107mの大手堀に幅約5.4m、高さ7m、 長さ60mの大手橋が架けられていた。両端の橋台が堀に突き出しており、土橋と木橋を 併用したような形になっていた。 明治23年に取り壊され、明治41年に現在のような道路に改造された。


【西堀】
 関川流路の蛇行部分を利用して造られた周囲4km、面積は19haの外堀は 非常に幅が広く、西堀の幅も約54間(97m)あった。明治期に土塁を崩して堀が埋められたので、 現在は当時に比べると狭くなっている。また、明治になって農業用に植えられたハスは、 外堀の大半を占め、東洋一とも言われているらしい。
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【南堀と南門跡】
image-1 image-1  南堀も西側半分が残っている。当時は84間(151m)もの幅があったらしい。 この辺りには南門があったが、遺構は残っていない。