府内城 本丸跡
本丸跡
【本丸】 |
本丸の石垣は、南側部分が大正8年(1919)の県庁の拡張工事の際に崩され、内堀を埋め立てに使われてしって跡形もないが、それ以外の部分は比較的良好に残っている。
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【天守・天守台】 |
本丸北寄りに築かれている天守台。当時はこの天守台の上に四層の天守が建てられていた。天守は当初、関ヶ原の後に入った竹中重利によって慶長7年(1602)頃に築かれたとされてきたが、実際には石高的な点や天守台の造りなどから、慶長4年(1599)頃(福原直高の頃)に建てられていた可能性が高い。最初は望楼型で建てられ、竹中氏の頃に改修されて層塔型になったと思われる。最上階に廻縁や花頭窓を設けた格式の高い複合式天守で、東渡櫓から二重の付櫓を通って天守に入る造りだった。寛保3年(1743)の大火により他の多くの建物と共に焼失し、以後再建されることは無かった。近年、再建計画もあったらしいが、経済的な面で難航している様子。
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【天守台石垣】 |
見た感じ、それ程には見えなかったが、天守台の規模は姫路城とほぼ同じだけあるらしく、かなり規模が大きい。また、上記のように付櫓から天守に入る造りだったため、建物がないと天守台には直接登れない造りになっており、現在は階段が設けられている。また、石垣の隅部は算木積になっていない古いタイプの積み方で積まれている。加藤清正が石工数十人を派遣建造を手伝ったとの記録が残っているが、その頃に築かれた石垣と思われる。
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【お宮の祠】 |
天守台西側の下に祀られているお宮の祠。福原直高の築城時、水害で工事が進まなかった際にお宮が弁財天の木像を抱いて人柱となり、その後工事は順調に進んだらしい。ありがちな話ではあるものの、凄い時代だな。
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【人質櫓】 |
本丸の北東部、当時人質場と呼ばれていた曲輪に建てられていた人質櫓。二重二階の隅櫓で府内城の櫓としては珍しく地階が無く、城内外で階数が一致している。まぁむしろこれが一般的だが。現在見られる建物は、安政元年(1854)の大地震で損壊した後、文久元年(1861)再建されたものだが、築城当初と同じ規模で再建されているらしい。城内に残るもう一つの現存櫓である宗門櫓とともに県指定文化財に指定されている。それにしても人質櫓とは凄い名前。よりによって本丸に人質を閉じ込めたりしていたとは考えにくいが・・・
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【西側虎口】 |
本丸と西丸との間に架けられていた土橋跡。現在は本丸と西丸との間の堀が埋められてしまっているが、埋められた堀の部分が石で区分けしてあるため、辛うじて土橋感をイメージできる。この土橋を渡ったところに枡形虎口が設けられ、北側に二重櫓が建てられている厳重な造りになっていた。
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【犬走り】 |
府内城の本丸と二の丸の周囲には犬走りが設けられており、特に本丸周囲の犬走りは幅2~3mで舗装されており通行可能になっている。これは結構珍しい気がする。
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【排水溝】 |
その犬走りのおかげで、石垣に設けられた排水溝が間近で見る事が出来る。この石樋は本丸に3箇所、西丸に5箇所、東丸に4箇所設けられている。
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