Japanese Castle

府内城 二の丸 (西丸・東丸)

二の丸 (大手門・西丸)

【大手門】

 二の丸(東丸・西丸)の南に位置する大手門。寛保3年(1743)の火事は免れたが、昭和20年7月の戦災により焼失し、現在の大手門は昭和40年(1965)に他の櫓と共に復元されたもの。現存する古写真とは一部異なっており、当時は屋根上に鐘楼がある珍しい形状だった。側面に設けられた花頭窓も、当時は中央に太めの間柱を立てた府内城ならではの特徴的なものだった。また、門前の大手橋は現在、随分立派な土橋になってしまっているが、当時は廊下橋だった。
【宗門櫓】

 西丸の南面に建てられている櫓で、城外から見ると平櫓だが、城内から見ると二重櫓となる珍しい造り。これは櫓部分の石垣を拡張せず、狭いままの石垣上に建てているため、城内側に一階部分が張り出しているもので、府内城以外では、熊本城宇土櫓、岡山城月見櫓、姫路城帯郭櫓などが現存している。ちなみに、府内城の櫓は、一部を除いて基本この造りだった。 現在残っている櫓は安政6年(1859)にされたものだが、元々の櫓は寛保3年(1743)の大火を免れていたもので、築城当初の規模や工法を引き継いでおり、鉄砲狭間や石落としも見られる。本丸の人質櫓と共に、城内に2つのみの残る現存櫓で、県指定文化財に指定されている。
【宗門櫓付近の石垣】
 近年の発掘調査に結果、宗門櫓付近の内側に張り出した石垣が見つかっている。これは古絵図に描かれているものと一致し、大手門入ってすぐの出合曲輪と西側の曲輪とを仕切る石垣だったと思われる。とは言われても、内堀も完全に埋められてしまっている状態なので、イメージは湧かないな。
【西丸西南隅櫓】

 西丸の西南隅に建てられている櫓。着到櫓同様、昭和20年の空襲で焼失した。昭和40年に周囲の土塀と共に復元された。戦前の古写真が残っている。
【西丸西南隅櫓横の板塀跡】
 西丸の周囲は現在は白塗りの土塀で復元されているが、古絵図を見ると上記隅櫓の両側は一部板塀になっており、石垣の上部にはその痕跡も見られる。これは、大砲を設置するために外しやすくしていたものと考えられている。内側は雁木になっていた。
【西側虎口】
 西丸に堂々と虎口が設けられてしまっているが、当時はここに虎口はなかった。西丸には明治期には県庁が置かれ、昭和37年(1962)に県庁が城外に移転した後も、昭和41年(1966)から平成25年に解体されるまで文化会館が置かれていたので、車の通れる大きな道が必要だったのだろう。とは言え、やはり残念だな。
【北側虎口】
 西丸北側に設けられている虎口。枡形状の石垣の基部の他、冠木門の礎石も残っている。この虎口から山里丸に続く廊下橋が架けられている。

二の丸 (東丸)

【東丸】
 二の丸の東側部分が東丸と呼ばれていた場所で、当時は藩主の御殿が建てられており、周囲には三階櫓を含む5棟の櫓があった。訪れたとき(2017年)は内堀の発掘調査中だった。本丸と二の丸との間の内堀は大正8年(1919)に県庁の拡張工事の際に本丸の石垣の一部が崩されて埋め立てられてしまっており、現在は全く往時の姿が想像できなくなってしまっているので、発掘調査の結果を元に復元して欲しいものだ。
【着到櫓】
東丸の南西隅、大手を見下ろす位置に建てられている着到櫓。昭和20年7月の空襲で焼失し、現在見られる櫓は昭和40年に復元されたもの。ガラス窓が入れられた明治期の古写真が残っている。
【東丸南東隅櫓】
 東丸南東隅に位置する隅櫓。着到櫓と共に東丸の南面を守っていた。しかし、元々は平櫓だったものを二重櫓で復元したらしい。ちょっと見栄を張りたかったのかもしれないが、そういう史実に基づかない改造はしない方が良いと思う。
【三階櫓跡】
 東丸の東側側面に張り出した三階櫓跡。城内からは四重となるひときわ大きい規模で、最上階に廻縁を設けた格式の高い櫓だった。天守も四層だったことを考えると天守に準じる櫓だった事が分かる。寛保3年(1743)の大火で焼失し再建されなかった。平櫓を二重櫓とかで再建しているくらいだったら、これを頑張って復元して欲しかった。
【二階櫓】

 東丸北東隅にひっそりと復元されている二階櫓。この櫓は府内城にしては珍しく、外側と内側とで階数が変わらない。ちなみに、内側から見た石垣の高さが西丸より東丸の方が低くなっているが、外側から見ると約6mで変わらない。これは東丸の標高が西丸より高くなっているためで、当時から同様の高低差があったらしい。
【東側石垣 排水溝】
 東丸の東側石垣に設けられた排水のための石樋。この石樋は東丸に4箇所設けられている他、本丸に3箇所、西丸に5箇所あるが、東丸の排水溝は堀からの高さが2.5mであるのに対して、西丸の排水溝は堀からの高さ1.8mになっている。これは上記のとおり、東丸と西丸との高低差が関係している。西丸に本数が多いのも、土地が低い分、水ハケが悪かったのだろう。やはり御殿のある東丸の方が重要視されていたと言うことだろうか。