杵築城 本丸跡・復元天守
本丸跡・復元天守
【三の丸虎口】 |
城の主要部があった台山の西側山麓から登城。現在も橋の下には幅20m程水堀が残っている。この橋を渡った辺りには虎口が設けられていたと思われる。
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【三の丸】 |
城山を登った三の丸は、青筵神社と廃墟となっている運動施設のような建物が建っている。道路も舗装されており、遺構は殆ど残っていない。
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【三の丸~二の丸】 |
三の丸の東側に位置する二の丸。とは言え、正直どの辺りからが二の丸かも判然としない。グラウンド辺りは三の丸だろうか? 一応、怪しく積まれた石垣と門で区分けされているので、ここから東が二の丸という認識で良いのだろうか?
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【二の丸】 |
上記仕切りの東側の推定二の丸跡には、多くの石塔が並べられている。この辺りも特に遺構っぽいものは見当たらない。
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【本丸虎口】 |
二の丸を抜けて東端の本丸へ。本丸の虎口付近でようやく遺構らしい遺構が見られる。本丸虎口に設けられていた枡形の跡と見られる土塁で、かなり重厚に虎口だったことが分かる。しかし、城山で見られた遺構はこれ位だった。
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【模擬天守】 |
城山の東端、古絵図で天守台と描かれている場所には模擬天守が建てられており、内部は資料館となっている。元々の天守は慶長3年(1608)に落雷によって焼失したらしいが、詳細は不明で再建される事もなかった。
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【模擬天守内部】 |
模擬天守の内部は資料館となっており、石田三成の兄、石田正澄着用の兜や松平氏の甲冑など、杵築城関連資料が多数展示されている。石田正澄の兜があるのは、石田三成の娘婿だった福原直高が城主になっていたからだろうか。と思ったが、説明書きによると家臣の宮部家が家康から下賜されたものだったらしい。
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【木付城跡】 |
模擬天守の横に建てられている『木付城趾』の石碑。当初、杵築城は『木付城』と記されていたが、正徳2年(1712)に藩に下された朱印状に『杵築』と誤記されてから『杵築城』となった。間違えられて、そのまま変えてしまうとは・・・
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【搦手】 |
本丸の北側には、山麓まで降りる搦手が設けられている。古絵図には描かれておらず、いつ頃から使われていた道か不明だが、北側山麓の御殿跡に直結する道なので、当時から何らかの道はあったのかもしれない。
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【千石蔵】 |
江戸時代の頃には、城山の南側山麓には船着場が造られ、千石蔵が並んでいた。遺構は何も無い。
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御殿跡
【御殿跡】 |
慶長元年(1596)の震災や翌年の暴風雨で台上の建物が被害を受け、また要害の必要性も無くなってきたことから、北側山麓に御殿が築かれ、城の中枢部が移っていった。現在資料館が建てられている辺りが御殿跡で、他にも御馬屋や御武具方などもあった。御殿の庭園跡とみられる池も残っている。
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【御殿石垣】 |
御殿の周辺には、割石積みの石垣が残っている。御殿が築かれ始めた1600年初頭頃に積まれた当時のものとみられる。当時この石垣は海に面していた。
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【堀跡】 |
御殿跡と城山との間に掘られていた堀跡。現在は埋められているが、当時は水堀だった。西側で水堀と繋がっている。
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【水路】 |
御殿跡に展示されている水路の石樋。江戸時代に八坂川下流の河口に設置され、近年まで使われていたらしい。
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