Japanese Castle

中津城 模擬天守・本丸跡

模擬天守

【模擬天守】
 本丸の北東隅に建てられている五重天守。現在、すっかり中津城のシンボル的な存在となっている立派な天守だが、これは昭和39年に萩城天守を参考にして建てられた完全な模擬天守で、当時天守は築かれていなかったと考えられている。確かに、石垣からはみ出して建てられているところなどは、萩城天守の古写真とよく似ている。内部は奥平家歴史資料館として公開されており、奥平家歴代当主の甲冑や武具などが展示されている。

【模擬天守内部】
 模擬天守内部には、多くの奥平氏関連の品が展示されている。この奥平団扇の家紋を大分で見れるとは・・・ 奥平家と言えばやはり長篠城主のイメージが強いので、懐かしい感じすらする。などと思っていたら、やはり長篠合戦の絵図まであった。やはり奥平家にとっては一番輝かしい時期だから、どうしても引っ張ってしまうんだろうな。
【白鳥鞘の鑓】
 こちらも奥平家歴史資料館に展示されている『白鳥鞘の鑓』。元々は源為朝が使用した鏃で、その後織田信長から徳川家康と渡り、徳川家の家宝となっていたものを、家康の曾孫にあたる奥平忠昌が家康から譲り受けたものらしい。この槍の威光で諸大名より特に重視されたとか。なにげに凄いものが残っているな。
【大鞁櫓】
 天守の南側に建てられている二重櫓。現在の建物は天守と同時期に建てられた模擬櫓だが、ここには当時本丸東南隅櫓が建てられていた。格子窓からは、ご当地キャラの着ぐるみのようなものが見えている・・・

本丸上段

【奥平神社】
 本丸内、模擬天守横に建てられている奥平神社。最も治世が長かった奥平氏によって享保3年(1718)に建立された神社で、戦国期に徳川家に仕えて活躍した、奥平家中興の祖を祀っている。ここの賽銭箱にも奥平団扇がデカデカと施されている。
【城井神社】
 天正16年(1588)にこの城で誅殺された城井谷城主宇都宮鎮房を祀る神社。宇都宮氏は18代400年にわたって国守として豊前を治めていたが、秀吉の九州平定後、四国今治への移封を断り黒田家と対峙し、その結果中津城に招かれ酒宴の席で殺された。これにより宇都宮氏は滅亡し、家臣の多くも討死した。黒田孝高も酷い事をしている。が、相当悔いていたのか、それとも祟りが怖かったのかは分からないが、その後の居城となった福岡城にも城井神社を建立している。
【扇状神社】
 城井神社のすぐ横に建てられている扇状神社。大正9年(1920)に建立された神社で、宇都宮鎮房の従臣45名を稲荷大明神として祀っている。宇都宮鎮房の異変を知った重臣達は勇敢に戦って、ことごとく討死したらしい。
【西側石垣】
 本丸の北側から西側にかけて、黒田期に築かれた石垣が残っている。大きくて立派な石材が多く使われているが、これらは古代の唐原山城跡から神籠石列石を持ち出して転用したもので、一辺が溝状に削られている石が見られる。
【北側石垣】
 本丸の北側の石垣は、西側が黒田期の石垣、東側が細川氏によって増築された石垣となっており、継ぎ目がはっきりと分かる。
【東側石垣】
 本丸東側の石垣。この辺りは黒田期とも細川期とも違う感じ。もっと新しい時期に築かれた石垣に見える。
【鉄御門跡】

 本丸の西側、高瀬川に面して設けられていた鉄御門跡。河川から直接本丸へつながる珍しい門で、この名の通り、門の表面に鉄板を貼り付けた強固な門だった。また、古絵図によると、門の上には多門櫓が設けられ、すぐ横には三重の櫓が建てられていた。現在門跡は石で埋められてしまっているが、他とは明らかに石材が違うため、一目で門跡が分かる。この石どかしてくれないかなぁ。
【金刀比羅宮】
 現在、金刀比羅宮が建てられている場所に当時は鉄御門を守る三重櫓が建てられていた。確かに、結構広い。
【簡易保険・・・】
 鉄御門のあった石垣上は幅5~6mあり、多門櫓を建てるには十分な広さ。ベンチ状の石が置かれ、何か刻まれていたので、由緒正しいものかと思って見てみると、『簡易保険』と・・・
【薬研堀】
 本丸の北側と東側に残る水堀で、潮の干満によって水位が変化する。薬研堀と言うと、一般的には空堀の堀底が薬研状になっているものを想像してしまう。と言うか、水堀だと堀底が薬研状になっているか分からないからなぁ。でも、薬研堀らしい。

本丸下段

【三斎池】
 細川忠興によって本丸内に造られた池。観賞用だけで無く、城下の様子不足を補うために大がかりな工事を行い水を引いた。貞享3年(1686)と元文2年(1737)の出火の際には消火用水として役立ったらしい。細川忠興が隠居後に名乗った三斎から三斎池と呼ばれている。
【松の御殿跡(中津神宮)】
 本丸下ノ段には、文久3年(1863)に江戸藩邸から帰郷する姫達を住まわせるための松の御殿が建てられた。明治期に姫達が城下に移ると、中津市庁舎として使われたが、明治10年(1877)の西南戦争時に焼失した。その後、明治16年(1883)に中津神宮が跡地に建立された。
【水門跡】

 本丸南西隅に設けられていた水門跡の石垣。隅部に立石、上部に巨石を配置した珍しい石垣で、見栄えを意識した石垣。大手でもないのに頑張っているな。
【椎木門跡】

 本丸南東隅に設けられた椎木門跡の石垣。右に折れる枡形虎口で、枡形を抜けた場所には珍しい扇形の石垣が築かれていた。この石垣は寛文3年(1663)の絵図にも描かれている事から、細川時代の大改修時元和6年(1620)頃には築かれていたものと考えられている。また、幕末の頃の絵図によると、この扇形の石垣に門が設けられており、現在もその部分の石垣が残っている。写真では分かりにくいが、確かに石垣が弧を描いており、門の跡も見られる。
【南側水堀と土橋】
 本丸南側の水堀は一時期空堀となっていたが、近年水堀として復元された。その中央部には土橋が架けられ、虎口が設けられているが、これは明治期にこの部分の石垣を壊して造られたもの。貴重な黒田期の石垣になんて事を・・・ この土橋が無ければ、イメージがまた全然違ってくるなぁ。
【南側石垣】
 本丸南面の石垣は、上記の土橋によって中央で分断されているものの、土橋から西側には黒田期の石積みが残っている。当時最高技術とされた穴太積みで積まれており、石材には一切加工の跡が無い自然石が使われている。また、石垣をカーブさせて崩れにくくする『輪取り』と呼ばれる技法も使われており、僅かにカーブしているのが分かる。なお、土橋の東側も下段は黒田期の石垣らしい。確かに、上下で石の色が分かれている。
【南側土塁】

 南側石垣は外面にあたる南側は黒田期の石垣のままだが、内側には何度が増築されており、その痕跡が明治期に壊された部分に露出している。内側にも積まれていた石垣の跡を見ると、築城当初は高さ約5.85m、幅約2.4m程だったが、増築されて高さは約7mとなり、倍以上の幅になっている事が分かる。石垣が壊されて唯一良かったことかもしれない。