Japanese Castle

岡城 主要部

三の丸

【三の丸北側石垣】

 主要部にさしかかって、まず圧倒されるのは三の丸北側の横矢のかかった見事な高石垣。元々切り立った断崖の上に高石垣が築かれている。訪れた時期は、ちょうど草で覆われてしまう時期だったため、足場を組んで整備をしていたが、7階建ての足場になっていた。凄い高さだな。
【西中仕切門】

 本丸~三の丸の城の中枢部は東西に設けられた仕切門によって区画されている。西側の西中仕切門は城内で最も尾根が狭くなった部分に設けられており、両側は切り立った絶壁になっている。喰違虎口となっており、門を抜けても太鼓櫓が睨みを効かせていた。
【太鼓櫓門跡】
 西中仕切門を抜けたところに設けられている太鼓櫓門跡。中枢部である三の丸への大手側の最重要な虎口だけあり、高度に加工された城内で最も大きな石材が使用されている。この太鼓櫓門を抜けたところには枡形が設けられ、当時は天守代用だった三重櫓も睨みを効かせている厳重な造りだった。

【太鼓櫓門跡 枡形】
 太鼓櫓門を抜けたところに設けられていた枡形。門を抜けてすぐ左側にある石段は藩主の御成門で、右奥にある幅5m程の石段が通用口だった。見栄えを意識した化粧石も使われている。
【三の丸】

 太鼓櫓門から先が三の丸。本丸、二の丸の手前に位置し、周囲には門や櫓を設けて本丸、二の丸への入口を固めていた。また、内部には殿舎が建てられており、家臣や他藩の使者などが藩主と対面する場だったと考えられている。また、殿舎の跡地には土蔵が建てられ、その土塀の一部が現在も残っている。いつ頃建てられたものかは分からないが、時期によっては岡城唯一の建物の遺構と言う事になるな。まぁ相当朽ち果ててるけど。
【埋門跡】
 三の丸には西側の太鼓櫓門の他に、南東隅に埋門が設けられていた。本丸の御三階櫓の直下に位置し、当時は御門櫓が建てられていた。

二の丸

【二の丸虎口】
 三の丸から二の丸へ。本丸石垣に沿って二の丸虎口の石段が残っている。この石段上に当時は冠木御門が設けられ、さらにその後に御門櫓が建てられており、それぞれに番所が置かれていた。
【二の丸跡】
 本丸の北側に張り出して設けられた二の丸跡。当時は曲輪全体に御殿が建てられており、北端には月見櫓が、東側には御風呂屋が建てられ、それぞれと繋がっていた。他の曲輪とは雰囲気の違う遊興的な曲輪だったと考えられる。流石は平和な時代の近世城郭。
【二の丸風呂屋跡】
 風呂屋跡は二階建ての建物で、二階で本丸と繋がっていたらしい。現在、二の丸には復元とは言えないものの、本丸まで通じる建物が再現されており、当時の雰囲気が感じられて面白い。石垣だけ見ているとなかなかイメージしにくいが、当時はこのような建物で高低差のある曲輪の行き来をしていたのだろう。
【二の丸空井戸】
 二の丸の虎口付近に残る井戸跡。石組みを伴うかなり立派な井戸だが、当時から空井戸だったらしい。しかも、当時は60mの深さがあったとか。となると、当然何のための井戸かが気になるところで、抜け道説や、財宝の隠し場などの伝説が残っている。

本丸

【北側虎口】
 本丸は二の丸の南側に位置し、三の丸から二の丸を経て本丸の北側に設けられた虎口を通り本丸に至る造りになっている。門跡の外側は左右に階段が設けられており、わりと新しい時代の造りに見える。本丸に残る虎口はこの一ヶ所のみだが、当時はこの虎口の東側に建てられていた風呂屋の二階からも行き来できるようになっていた。
【本丸跡】
 文禄3年(1594)の中川秀成の入城後に築かれた城の主要部。中央部には藩主の住まいとなる本丸御殿が建てられていた他、本丸御殿を取り囲むように、天守に相当する御三階櫓や角櫓、 多門櫓、金倉などが配置されていた。現在は天満神社が建てられている。ちなみに、この神社も中川秀成が入城時に移転建立したもので、明治以降の本丸、二の丸、三の丸は一応この神社の境内という事になっている。
【御三階櫓跡】

 本丸の南東隅には天守代用となる御三重櫓が建てられていた。当初の御三階櫓は中川秀成により初重平面9×8間の規模で建てられたが、明和6年~8年(1769~1771)頃に風雨と地震により倒壊した。その後、安政3年(1774)に初重5間四方の規模で再建され、明治期まで残っていた。明治初期の古写真にもこの頃の天守が写っており、層塔型で廻り縁を巡らしており、渡櫓が連結していた事が分かる。また、天守台の石垣は独立した櫓台ではなく、本丸の一部だが、反りの無い直線的な石垣で基底部から切込接、隅部は算木積となっており、安政3年(1774)の再建時に積み直されものたと思われる。昭和62年の築城800年祭りで期間限定で復元されたが、一瞬で取り壊され現在は何も残っていない。勿体ない・・・
【角櫓跡】
 本丸北西隅には角櫓が建てられていた。隅櫓は渡櫓により南西隅の天守と連結しており、小三階櫓とも呼ばれていたが、古絵図によると二重櫓。
【金倉跡】

 本丸の東端には金倉が建てられていた。金倉というとただの倉庫のような印象だが、東中仕切門を見下ろす重要な場所に位置し、東側の守りの要となっていたと思われる。まぁ平和な江戸期に金倉として使われていたのかな。
【本丸石碑】
 特に石碑派と言うわけでは無いので別に良いのだが、この本丸の石碑の位置、微妙だなぁ。後から木が生えてきてしまったのだろうけど、すごい写真撮りにくい。二の丸も似たような感じだったな。
【発掘中?】
 本丸の一隅には、石垣の露出した発掘中のような場所があった。見た感じ、作業している様子も無く、ブルーシートとかもかかっていないけど、大丈夫なのだろうか? ただの花壇ではないだろうと思うけど。

主要部

【主要部】
 城域北側の中川覚左衛門屋敷跡から見た、本丸~三の丸の城の中枢部。現在は木々に覆われてしまっているが、こここそ『天空の城』と呼ぶにふさわしい気がしてくる。滝廉太郎曰く、荒城だが。