岡城 西の丸跡
西の丸御殿跡
【西の丸御殿 東門跡】 |
大手門を抜けてすぐの所に位置する、西の丸御殿の東門跡。どこか沖縄の御殿を思わせる幅の広い石段で、この門跡だけでも、かなり規模の大きな御殿だったことが伝わってくる。
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【西の丸御殿 東側虎口】 |
西の丸御殿は二段になっていたようで、上記の東門を抜けた後、さらにもう一段の石段を登って御殿に至る造り。この辺りも良く残っている。
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【西の丸御殿跡】 |
城域西側、に残る広大な西の丸御殿跡。寛文4年(1664)に三代藩主中川久清によって隠居後の御殿として建てられたが、実際にはこの当時から公務に使われていた記録が残っている。明和8年(1771)の大火により焼失し、安永8年(1779)には再建されている。それ以降は政務の中心的役割を果たしていた。御殿のほかに馬場や庭園等があり、城内で最も広い曲輪となっている。
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【西の丸西側石垣】 |
西の丸の西側には、数段にわたり弧を描く見事な石垣が残っている。一部増築の跡もみられる。
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【西の丸御殿 北東辺虎口】 |
北東辺の中程に設けられた虎口。訪れた時は新緑の季節だったこともあり、草に覆われてしまっていたが、規模の大きい虎口だった事が分かる。これだけ広大な城跡を整備するのは大変だろうな。
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【西の丸御殿 北側虎口】 |
西の丸御殿の北側虎口は、外側にも門跡が残っており厳重に守られていたことが分かる。
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【西の丸御殿 井戸】 |
西の丸御殿の北側、一段下がった場所には井戸が二ヶ所残っている。この山上から井戸を掘るとなると、かなり深く掘らなければならなかったことだろう。
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【西の丸御殿 周囲の石垣】 |
西の丸御殿の北側から東側にかけては、直線的な石垣から曲線的な石垣まで、様々な石垣が残っている。時代もだいぶ異なるようで、上段の石垣には石を斜めにして積み上げる落とし積が使われているおり、比較的新しい時期のものと思われる。
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【物見台】 |
西の丸御殿から西側に突き出た細い尾根の先端には物見台が設けられていた。ここからは惣役所などが見渡せる。
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西の丸跡
【中川民部屋敷跡】 |
西の丸に建てられていた3つの家老屋敷の内の一つ、中川民部屋敷の跡。西の丸御殿の東側一段下がった場所に位置し、ここは近戸門に向かう通路の途中でもある事から、門と御殿周辺をを守るための意図もあったと思われる。中川民部は3代藩主中川久清の子孫にあたる家系。二の丸の家老屋敷はいずれも『中川氏』だが、城主の直系はこの民部のみ。やはり重要な場所は一族衆に任せたと言う事だろうか。現在は礎石による建物表示がされており、表書院、奥書院、台所、離れ座敷などの他、茶室や土蔵も見られる他、周囲には切り込み接ぎの石垣が残っている。
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【中川覚左衛門屋敷】 |
城域の北側、主要部とは清水谷を挟んだ別尾根に築かれていた中川覚左衛門屋敷。周囲に築かれた三段の石垣が見事に残っている。中川覚左衛門は、中川家に代々仕えた古田織部の子孫にあたる家系らしく、延享2年(1745)にこの屋敷に移った。屋敷の間取りが詳細に記された絵図が残っており、その絵図と発掘調査を元に床面までが復元展示されている。
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【中川覚左衛門屋敷 石】 |
復元された建物と共に縁石や手水鉢もあるが、これらは当時のものかもしれない。完全な復元も良いが、こういう形も雰囲気が伝わってきて面白い。
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【普請方跡】 |
近戸門跡のすぐ横に位置する普請方跡。普請方となっているが、実際は近戸門を守る役割のあった場所だろう。高さ4~5m程の見事な石垣が残っている。
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【賄方跡】 |
近戸門から民部屋敷の横を抜けて本丸に至る道の途中に位置する賄方の跡。来客者が登城した際の待合所のような場所だった。明和2年(1765)の火災により焼失した。
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【武具方跡】 |
賄方跡のすぐ南側、一段上がった場所に位置する武具方跡。ここも周囲の石垣しか残っていないが、北側(賄方側)の石垣が2段になっている珍しい造り。崩れたわけでもないと思うが、どう言う造りだったのだろう。
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【朱印倉跡】 |
武具方跡の南側が朱印倉跡。大手門入ってすぐの場所に戻ってきた。周囲には時代も工法も違いそうな何種類かの石垣が見られ、一部には見事な切込み接ぎも見られる。
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【桜馬場跡】 |
大手門から東側の主要部へと続く通路のような曲輪。この曲輪沿いに朱印倉、中川但見屋敷、城代屋敷、籾倉が並んでいた。
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【中休所跡】 |
桜馬場の一角に設けられた中休所跡。確かに、いくら当時の人が健脚だったとは言え、あの大手道を歩いて上ってきたら少しは休みたくもなるだろう。
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【中川但見屋敷跡】 |
西の丸に建てられていた3つの家老屋敷の内の一つで、中川但見は元亀年間から中川清秀の老職として仕えた戸伏の家系。大手門から本丸に至る桜馬場の横に位置し、桜馬場沿いに正門の石段が残っている。中川秀成が入城した際、本丸完成までの間、仮屋敷として過ごしたらしい。
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【城代屋敷跡】 |
中川但見屋敷と細い通路を挟んで東側に位置する城代屋敷跡。周囲の石垣は、但見屋敷の石垣と比べるとだいぶ崩れてしまっている印象。曲輪内には井戸跡もしくは貯水池と思われる石組みの窪みも残っている。
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【籾倉跡】 |
城代屋敷の東側に位置する籾倉跡。案内石碑が建てられているが、城代屋敷との境界もはっきりせず、建物跡も残っていないので、正直どこに倉があったのかはよく分からない。
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