大友氏館跡
大友氏館跡について
最盛期には九州六ヵ国の守護となった大友氏の館跡。発掘調査の結果、室町後期から整地が行われ最盛期の大友宗麟の頃には、200m四方に及ぶ壮大な規模の敷地内に大規模な礎石建物や巨大な池を持つ庭園が造営されていた事が分かっている。これは京都の室町将軍邸(花の御所)をモデルにして造られた、当時最大級かつ代表的な守護館と思われる。しかし、天正14年(1586)島津氏の侵攻を受け焼失し、江戸時代以降は耕作地となっていた。近年になって、西国の中心的な役割を果たした守護館の貴重な遺構として発掘調査がすすめられ、公園化に向けて整備が進められている。
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【大友氏館跡】 |
訪れた時(2017年)は、残念ながらブルーシートに覆われ発掘作業中だったが、流石に広大な事だけは伝わってくる。近い将来、復元整備され歴史公園として一般公開されるらしい。その頃にまた来てみたいな。
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【上原館跡】 |
現在発掘中の大友氏館跡の南には、鎌倉時代から戦国期まで歴代大友氏の居館が置かれていた上原館跡が残っている。東西約130m南北約150mの規模で、現在も市街地にありながら、天満社となって奇跡的にほぼ当時のままの形状で残っている。天文19年(1550)の大友氏内のクーデター、『大友二階崩れの変』はここで起こったらしく、当時はここに二階建ての館が建てられていたと考えられている。歴史的事件の現場としては、少し寂しい感じだな。
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【上原館跡 土塁】 |
上原館跡の周囲に残る土塁。高さ3~4m、幅5~6mあり、かなり重厚な土塁だったことが分かる。北西側に枡形もあるらしいが、イマイチ場所が分からず特定できなかった。
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