臼杵城 本丸跡・卯寅口
本丸跡
【空堀と土橋】 |
本丸と二の丸とを隔てる空堀。中央付近に架けられている土橋の南側部分は深さ7~10m、幅25mに及ぶ規模の大きなもので。稲葉氏時代に整備されたものとみられる。両側の石垣も見事に残っており、一部に排水溝の石樋も見られる。
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【鉄門櫓跡】 |
土橋を渡ったところに設けられた本丸虎口。現在は石垣の南側半分のみしか残っていないが、当時は堅固な枡形虎口だったと思われる。かなり大きな石が積まれている。
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【本丸】 |
空堀に隔てられた東側、東西約250m、南北約150m程の曲輪が本丸で、二之丸よりかなり狭い。標高も二之丸より低く、大友時代の実質上の主要部は二之丸だった可能性がある。稲葉氏入城後は本丸に藩主の御殿が建てられていたが、延宝4年(1676)に当時の5代目藩主・稲葉景通によって藩主の御殿が二之丸に移転し、城の中枢部は完全に二之丸に移っていった。
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【北側空堀】 |
本丸と二之丸とを隔てる空堀のうち、土橋の北側部分は大友時代に整備されたものと思われる。本丸側には天守台、二之丸側にも古い石垣が残っている。大友氏時代の当初の登城路は、古橋口から二の丸北側の帯曲輪を通り、この本丸空堀に至るルートだったと思われる。
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【天守】 |
天守は本丸の北西隅の目立たない場所に築かれていた。正直、城下からも見えない位置で、何故ここに?と言った印象。天守の正確な図面は残っていないが、古絵図によると三重天守で、一階平面が6間(約11.7m)四方、土台からの高さが6間1尺(約12m)との記録が残っている。当初の天守は、石垣から福原期にたてられたと考えられているが、その後、何度が稲葉氏により改修されている。特に明暦元年(1655)には大規模に改修され、本丸北西隅部に独立に建てられていた付櫓と多門櫓で繋がれた。明治の廃城時に取り壊された。
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【天守台石垣】 |
現在も残る天守台石垣。当時は高さ7mに及ぶ高石垣だったらしいが、大正期の公園整備時に上部約3mが撤去されたとの事。何とも勿体ない・・・ 隅部が算木積になっていないことから、福原期の頃に築かれたものと考えられており、九州では名護屋城に次いで古い天守台となる。古式の野面積みだが、表面に見えている石の1.5倍の奥行きがある頑丈な造りになっている。
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【亀首櫓跡】 |
本丸の東端には、亀首櫓と呼ばれる櫓が建てられていた。当時は海に突き出した島の先端にあたり、眼下は一面海だった。城山を亀に見立てると、先端部の首に位置するから、亀首と名付けられたのだろうか?
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【東側虎口】 |
現在は公園化にともなって本丸の北東側にも出入口が設けられているが、この辺りも城山との高低差は10m以上あり、外側は巨大なループ橋となっている。勿論、当時この下は海だった。
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卯寅口
【卯寅口】 |
本丸の東側に設けられていた卯寅口。海へと通じる搦手として使用された。大友宗麟築城時に卯寅の方角(東北東)に造られた事から卯寅口と呼ばれているが、どちらかと言うと南西のような気がする。どこから見ての『卯寅』なのだろう? ちなみに、『うとらぐち』ではなく『うとのぐち』と言うらしいが、何故こう呼ばれているのかは定かでは無いらしい。
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【卯寅口門脇櫓】 |
畳櫓と共に、臼杵城内に現存する2基の櫓の内の一つ。卯寅口には当時、卯寅口門と卯寅口門櫓が設けられ、その南隣の独立した断崖上にこの卯寅口門脇櫓が建てられていた。延宝4年(1676)頃の古絵図には『御鉄砲薬櫓』と書かれており、火薬を保管する煙硝櫓として使われていたものと思われる。確かに、周囲は海で他の曲輪からも独立しているので、煙硝櫓としては最高の条件。現在見られる櫓は安政2年(1855)に建てられたもので、初重が極端に高い特異な形をした重箱造りの二重三階の櫓。近年解体修理され、平成20年に旧状に戻された。
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【井戸丸】 |
卯寅口内部に位置する井戸丸。曲輪内部にある井戸は、寛永年間に掘られたもので、現在は使われていないが、昭和25年頃まで使われていた。海の近くにも関わらず、豊富な真水が出ていたらしい。
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【卯寅稲荷社】 |
東側の崖上、ひたすら鳥居が並べられている卯寅稲荷社。大友宗麟築城時に鬼門にあたる場所として建てられたものらしく歴史ある社だが、やはりこっちが北東なのか?
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