Japanese Castle

臼杵城 二之丸跡

二之丸跡

【帯曲輪】
 古橋口から登城して中門を抜けると、二之丸帯曲輪の西側に至る。この帯曲輪は二之丸の北側まで続いており、築城当初の登城路は鐙坂からこの帯曲輪を通り二之丸の東側から回り込むルートだったらしい。現在も残る南側の畳櫓と、西側に突き出した時鐘櫓とともに大手の古橋口を強力に守っていた。
【畳櫓】

 帯曲輪の南端に現存する畳櫓。当初は正保年間に建てられたが、宝暦13年(1763)に消失し、現在見られる建物は、その後の明和年間(1764~1772)頃に再建されたものと考えられている。臼杵城内に2基残る現存櫓のうちの一つで、廃城時に殆どの櫓が取り壊される中、時報楼として使用するために取り壊されなかったらしい。一階と二階の床面積が等しい重箱造りの櫓で、近世城郭では珍しい古式の形状になっているが、現存するもう一基の卯寅口門脇櫓も同じく重箱造り。当時臼杵城では流行っていたのだろうか。
【時鐘櫓】
 帯曲輪の西側に張り出した部分には時鐘櫓が建てられていた。現在も鐘楼が建てられており、江戸期から使われていた鐘が置かれている。この鐘は原山時鐘と呼ばれているもので、元禄13年(1700)に鋳造され、その後寛政2年(1790)に改鋳され、江戸末期まで使用されていた。明治期の廃城後も畳櫓横に移され、昭和末期まで使用されていたが、平成20年に約140年ぶりに元の位置に戻された。ちょっといい話だが、畳櫓を時報楼として残すくらいだったら、最初から時鐘櫓を残しておけば、何度も移動する必要が無かったような気もするが。
【大門櫓】
 二之丸西側に建てられている大門櫓跡。稲葉氏入城直後に設けられた虎口で、築城当初の登城路をショートカットして、西側から直接二之丸に入れるようにした。建物は宝暦13年(1763)の大火で焼失し、その後明和5年(1768)に再建されたが、これも明治期の廃城の際に取り壊された。現在見られる建物は平成13年に復元されたもの。現存櫓や古写真などを参考にして幅約7m、高さ約8m、奥行約4mの入母屋屋根をともなう楼門形式で復元され、二の丸大手にふさわしい立派な門となっている。当時は門の両側に土塀が接続し、南北それぞれ井楼櫓と金所櫓まで続いていた。
【二之丸跡】
 城のある丹生島の西側部分が二の丸となっているが、実はこちらの方が本丸より標高が高い。実際に大友氏の時代から、二之丸の方が本丸的に使われていた痕跡も残っている。規模も東西約450m、南北約150mあり、本丸よりも圧倒的に広かった。稲葉氏入城の頃は、本丸に藩主屋敷、二之丸に藩主分家の屋敷と城代屋敷が建てられていたが、延宝4年(1676)に当時の5代目藩主・稲葉景通によって本丸にあった藩主の居館が二之丸に移転されてからは、完全にこちらが城の中心となった。現在は護国神社が建てられている他、グラウンドなどにもなっている。
【二之丸周囲】
 城山の周囲は現在も高さ15m~20m程の切り立った断崖になっている。現在は埋め立てられ民家が広がっているが、当時はこの断崖の下は一面海だった。
【武家屋敷】
 二之丸跡から見える城山の南の高台は、二王座と呼ばれる場所で、当時は武家屋敷が並んでいた場所。
【井楼櫓】
 二之丸の南西隅に建てられていた井楼櫓。最も規模の大きい二重櫓で、この櫓から城下のすべての街道を見ることが出来、城下を見渡せない位置に建てられていた天守の代用の役割も果たしていた。明治期に取り壊される前の古写真も残っているが、すぐ横に現存する畳櫓と比べると、相当大きかったことが分かる。
【会所櫓跡】
 二之丸の北東隅に建てられていた会所櫓跡。櫓台の石垣がひっそりと残っている。階段部分が何故か半分だけ平石で積み直されているが、目的も時代もよく分からない。大門櫓まで石垣が続いており、当時はこの上に土塀が設けられていた。
【国崩しの複製】
 二之丸内には、天正4年(1576)に大友宗麟がポルトガル人から手に入れ、臼杵城に配備していた日本初の大砲『国崩』のレプリカが展示されている。実物は明治維新後に国に巻き上げられ、現在は靖国神社に奉納されている。天正14年(1586)に島津軍に攻められた際は、この国崩し2門を使って守りぬいた。国崩とは大友宗麟が命名したものだが、当時はそれだけ衝撃的な威力だったのだろう。
【護国神社】
 二之丸内に建てられている護国神社。この神社は西南戦争時に戦死した臼杵藩士43名を祀ったのが始まりらしく、稲葉氏の祖も合祀されているらしい。神社周辺には、明治期に使われた砲弾のレプリカなどが展示されている。
【東側石垣】
 二之丸北東部に残る石垣。高さ3m程の野面積みで、墨部も算木積になっていない古い時代の石垣。